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築城の名手・藤堂高虎とキリシタン大名・京極高知の陣跡へ行く

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まだまだ関ヶ原シリーズ続きます。

では、前回の福島正則陣跡からほど近くにこちらがあります。

藤堂高虎と京極高知」の陣跡です。

藤堂高虎とは!?

藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。
何度も主君を変えた戦国武将として知られる。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城し黒田孝高、加藤清正とともに名人として知られる。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。

引用元:Wikipedia「藤堂高虎」

小領主であったにもかかわらず、戦国時代にあって没落しており、いっときは農民にまで身を落としていたそうです。
浅井長政に足軽として仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参戦して首級を取る武功を挙げ流れが変わります。
その後、主君を変えていきます。阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄、羽柴秀長、豊臣秀吉、徳川家康。主君はなかなかの顔ぶれですね。

戦功もさることながら、築城の名手としても有名です。

京極高知とは!?

近江守護の名門京極高吉の次男として生まれる。早くから豊臣秀吉に仕え、その功により羽柴姓を許されて羽柴伊奈侍従と称す。文禄2年(1593年)、義父毛利秀頼の遺領を(秀頼の嫡男秀秋を差し置いて)任され、信濃飯田城主として6万石を領し、従四位下侍従に任ぜられた。また、領内にキリスト教の布教を許可し、のちに自身もキリシタンとなっている。文禄3年(1594年)、10万石に加増される。
秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)には岐阜城攻めに参戦し、関ヶ原の戦いでは大谷吉継隊と戦うなどの戦功を挙げた。戦後は丹後12万3000石を与えられ、国持大名として京極丹後守を称した。田辺城に入城後、宮津城に拠点を移す。

引用元:Wikipedia「京極高知」

キリシタン大名としても有名ですね。ちなみに洗礼名はジョアンです。
さらに兄弟もなかなかの有名どころです。

兄の高次は浅井三姉妹の次女・初とご結婚されてます。
また、姉か妹かは不明ですが兄妹の京極竜子は豊臣秀吉の側室になっています。
個人的には京極高次・京極竜子は大河ドラマ「江」のときのイメージが強いです。

いざ、「藤堂高虎と京極高知」の陣跡へ

現在は関ヶ原中学校の中にあります。
さらに言うと私が訪れたときは工事もされていて、作業中の作業員の方々をすりぬけて訪問しました。

従来はねっばっこくあらゆる角度から何枚も写真を撮っているのですが、そのような環境ではなかったため手早く撤収。

実際、何か残っているのか?というと特別何かあるわけではなく、この石碑しかなかったです。

関ヶ原の合戦時には、福島正則隊に続いて東軍左翼縦隊の第2陣として進軍。

開戦すると、両隊は不破関跡付近まで進撃し、大谷吉継の隊に属していた平塚為広と交戦、午後には小早川隊と共に大谷隊を破ります。

ちなみに、藤堂高虎は脇坂安治や小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らに対して、東軍への寝返りの調略を行っていました。

個人的には藤堂高虎さん好きです。というのも、「日本城郭検定」で勉強したなかで「藤堂高虎」という名前が何回もでてきたことに驚きました。「この城も藤堂高虎や!」的な。

それだけの築城の名手なんだと学びました。関ヶ原では調略までしていたとは恐れ入ります。

藤堂高虎・京極高知陣跡

所在地: 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原2490−101
駐車場:関ヶ原中学校の駐車場
HP:http://www2.kanko-sekigahara.jp/historicsites-sekigahara/013.html

 

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