Check Masayanの【厳選記事】を見に行く

ここが京都の油小路事件現場!新撰組の伊東甲子太郎と藤堂平助の最期

記事内に広告が含まれています。

京都駅

京都駅からほど近いところにも新選組」ゆかりの地があります。

私は歩いていけるなぁと思いました。

油小路事件現場

そしてこちらに到着。

こちらが、かの有名な「油小路事件」「油小路七条の変」といわれる場所です。

「新選組」、「幕末ファン」の方ならご存じかもしれませんね。

今回はこちらについてのお話をさせていただきます。

「油小路事件(あぶらのこうじじけん)」とは!?

慶応3年3月10日(1867年4月14日)、新選組を離脱し御陵衛士(高台寺党)を結成した伊東甲子太郎が、勤王倒幕運動に勤しみ薩摩藩と通謀して新選組局長・近藤勇を暗殺しようと企んでいることを、新選組が間諜として潜り込ませていた斎藤一から聞き明らかとなった。
ただし、当時の伊東の書簡は対話を重んじるものばかりで、伊東自身も人を斬った記録が油小路事件以外にはなく、さらには近藤勇を暗殺しようとしたものがないため、近藤暗殺計画自体が存在しなかったとの説もある。
御陵衛士が江戸幕府と敵対していた長州藩に対して寛大な処分を主張する建白書を提出したことが、長州厳罰論を説く近藤勇を激怒させ、油小路事件につながったものといわれている。
同年11月18日(12月13日)、近藤勇は資金の用立て・国事の相談があるとの口実で七条の妾宅に伊東を招いて酒宴を張り、帰路に新選組隊士の大石鍬次郎らが待ち伏せて槍を以って伊東を暗殺した。伊東は深手であったが一太刀敵に浴びせ、「奸賊ばら」と叫んで、本光寺前で絶命したという。

引用元:Wikipedia「油小路事件」

大河ドラマ「新選組!」でも描かれていました。

新選組隊士の伊東甲子太郎先生が引き起こした大事件です。

では、伊東甲子太郎とはどのような人物なのか。

新選組参謀・伊東甲子太郎(いとうかしたろう)とは!?

伊東甲子太郎について

天保6年(1835年)、常陸国志筑藩士・鈴木専右衛門の家に生まれる。

旧姓鈴木。通称大蔵、摂津。諱は武明。実弟に鈴木三樹三郎がいます。家督相続後に父の不祥事により閉門。

水戸で神道無念流や後期水戸学を修めます。

安政6年(1859年)頃江戸に出て北辰一刀流の伊東精一に学びその没後その娘と結婚し伊東に改姓。道場を継ぎます。

元治元年(1864年)、藤堂平助に誘われ、鈴木三樹三郎らと上京。新選組に入隊。

甲子の年にちなんで甲子太郎と改名。

慶応元年(1865年)、参謀に就任。11月の永井尚志による長州尋問使に近藤勇らと同行し、翌慶応2年(1866年)1月の尋問使にも同行します。

この時伊東は広島で諸藩士と幕府の悪政について語り合い、滞在50日に及んだと同志である篠原泰之進の記録にあるが、後年に書かれた記録のため真偽不明だそうです。

同年12月の孝明天皇崩御に伴い、伊東は山陵衛士への転身を望みます。翌慶応3年(1867年)の九州旅行後、帰京すると篠原ら同志の活動によって御陵衛士の拝命が決まっており、3月に新選組から分離しました。

新選組から分離後の伊東は何度か朝廷に建白書を提出。建白書の中で伊東は、長州への寛典論の他、国民皆兵・五畿内の朝廷による掌握・富国強兵といった内容のいわゆる「大開国論」を展開。

11月18日、近藤に酒宴に招かれた伊東はその帰り道、油小路七条下ルにて新選組によって暗殺されました。享年33。

ざっと言うとこんな感じですかね。

ちなみにで言うと、新選組総長・山南さんとは同門の北辰一刀流の使い手でした。

また、熱烈な尊王攘夷論者として学識も高かったことも評価され新選組に入隊する運びとなります。

伊東甲子太郎のために山南さんよりも上席の参謀を新設して迎えるという破格の待遇で新選組に迎え入れることとなります。

せっかくの破格の待遇やったのに新選組を離脱。それゆえ局中法度違反となり暗殺処分となってしまいます。

なかなか残念な方ではあります。個人的には彼の新選組入隊が山南さんのポジションとうまく噛み合わなかったのも山南さんの脱走にもつながるんかなぁと思っています。

まぁ、専門学者でもないんでなんとも言えないですが。

そして、新選組の悲しい事件現場です

伊東歌詞太郎外数名殉難の地

「伊東歌詞太郎外数名殉難の地」となっています。

伊東歌詞太郎外数名殉難の地

伊東甲子太郎の暗殺後、新選組は油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置し、その周りに伏せ、遺体を引き取りにきた同志をまとめて粛清しようと画策します。

遺骸を引き取りにきた同志は、藤堂平助・篠原泰之進・鈴木三樹三郎・服部武雄・毛内有之助・加納道之助・富山弥兵衛の7名です。

なんといってもこの中に試衛館道場時代、つまりは江戸から京都へ上るときからの仲間でもある「藤堂平助」も含まれているところが悲しいところ。新選組元八番隊の組長も務めていた人物です。

そんな藤堂平助ら4名の遺体は、御陵衛士残党をおびき出すための囮として、数日(3、4日ほど)の間、道端に放置されたそうです。
永倉によると、近藤から「(藤堂は)まだ若い有為の材であるからできるだけ助けておきたい」との指示があり、平助が逃げられるように道をあけたが、事情を知らぬ隊士三浦常三郎に斬られたとされている。
また、平助は永倉の深意はくみ取ったものの、魁(さきがけ)先生と呼ばれたプライドと同志を見捨てられないので、新選組に立ち向かって三浦に斬られたともいわれている。
他に、永倉の深意を汲み取り退こうとしたところを三浦に後ろから斬りつけられたため、平助は背後から斬られるのは武士の恥として応戦し、数々の傷を負い戦死したとする説もある。

引用元:Wikipedia「藤堂平助」

所説いろいろありますね。

でも個人的には永倉が逃がそうとしたけど、それを理解してない三浦に斬られたんかなぁとも思います。

というか「新選組!」のイメージが強いからかもしれませんが。

おわりに

油小路事件現場

現在、かつての事件現場の目の前はきれいな道路となっています。

京都駅はすぐそこです。そんなところで、「かつてはどらい事が起こっていたんだなぁ。」と思うとドキドキしますね。

歴史関連書物なんかで目にする「油小路事件」現場。実際にここにこれて感動です。

想いは違えど、日本のために血を流した侍たち。今はご冥福を祈るばかりです。

油小路(あぶらのこうじ)事件現場

所在地:京都市下京区油小路町281

合わせてチェック!

コメント

タイトルとURLをコピーしました