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蘇我入鹿の首塚はここ!討たれた首が飛んできたのは飛鳥寺のすぐ裏手

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まだまだ続く奈良県は明日香村レポートです。

前回の飛鳥寺を抜けて西へ歩いて行くこと数メートル。

すると、見えてくるのがこちら。

蘇我入鹿の首塚

蘇我入鹿の首塚です。

え?蘇我入鹿??

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「大化の改新」で討たれた人物です。

と言った方がわかりやすいかもしれませんね。

蘇我入鹿(そがのいるか)とは!?

 644年(皇極天皇3年)11月には甘樫丘に邸宅を築き、これをそれぞれ「上の宮門(みかど)」「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせた。また、畝傍山に要塞を築き、皇室行事を独断で代行した。
これらの政策により、入鹿は実質最高権力者としての地位を固め、その治世には人々は大いに畏敬し、道に落ちているものも拾わなくなったと言われた。しかし、そのような入鹿の天下は長くは続かなかった。古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変のクーデターによって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で殺害された。

引用元:Wikipedia「蘇我入鹿」

まぁ、ここだけとるとすんごい傲慢の悪い奴になってしまいますね。

ですが補足すると、学問にも優れ、大陸との交流を持ち仏教の導入にも尽力された人物です。

大臣としての権力の使い方や聖徳太子の子・山背大兄王を自殺に追い込むなどの事柄が良いイメージを持たせないところでしょうか。

そして乙巳の変(大化の改新)と呼ばれる日本で最初になるクーデターによって殺害されたということです。

いざ、蘇我入鹿首塚(そがのいるかくびづか)へ

蘇我入鹿の首塚

とてもシンプルです。まわりの開けた感じが開放感を演出してくれます。

蘇我入鹿の首塚

周囲は田んぼ。とても静かです。

蘇我入鹿の首塚

奥にはわずかに甘樫の丘が見えます。

ここに首が埋まっているそうですが、蘇我入鹿が討たれた場所はここではありません。

飛鳥伝板蓋宮跡というところになります。板蓋宮は入鹿の首塚から直線距離で約620mほど。

「そんな距離を跳ねられた首が飛んでくることは難しいでしょう~」と思いますが、それくらいの出来事だったという当時の表現なのでしょう。

ここがかつて歴史の教科書で習った飛鳥時代の舞台なんだなぁ~と噛みしめながら写真を撮らせていただきました。

 

蘇我入鹿首塚

所在地:奈良県高市郡明日香村飛鳥

 

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