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義経堂が今も残る小田八幡宮!ここは源義経北行伝説ゆかりの社

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前回はあの義経北行伝説ゆかりの地龗神社を参拝したわけですが、まだまだ立ち寄ります。
そうでなくては遠路はるばる青森まで足を伸ばすことはありません。

今回ももちろん義経北行伝説ゆかりの地です。

こちらは義経が京都の鞍馬から持参したとされる「毘沙門天像」や「大般若経」が残っているそうです。

参りましょう!

【小田八幡宮(こだはちまんぐう)】です!

小田八幡宮(こだはちまんぐう)とは!?

天喜年間(11世紀中半)に鎮守府将軍に任命された源頼義が陸奥国を治めるために八幡神を勧請して鎮守とし、その後源義経が平泉から逃れて当地に寓居した際に毘沙門天の像を納め、その像の背中に3寸6分(およそ12センチ)の八幡神の木像を填めて安置し、以降「小田毘沙門堂」と称され、江戸時代の天和2年(1682年)以降は天台宗寺院の「小田山徳城寺(こださんとくじょうじ)」と称し、毘沙門天が北域を守護する天部である為、八戸藩根城の北方を鎮護する役割があったとされる。

明治の神仏分離令により毘沙門天像の胎内に納められていた八幡神像を取り出して祀り、毘沙門天像は別棟に安置、社名を「八幡宮」と改称して明治6年(1873年)4月15日に村社に列格した。

引用元:Wikipedia「小田八幡宮」

とのこと。
記載のとおり、義経が毘沙門天の像を納めたからこそ、「小田毘沙門堂」とも呼ばれていたそうです。

いざ、小田八幡宮へ

源義経は、兄の頼朝に追われ、文治5年(1189年)岩手県平泉の高館において31才の若さで自害したといわれ、悲劇の名将として世に伝えられております。当地方に伝えられている伝説によれば、北へ逃れた義経は、八戸に上陸し近くの高館に住んだといわれています。その時この宮に義経が持参した毘沙門天の像を、八幡の神に合せ奉ったともいわれ、また家来と共に奉納した大般若経の写経と経箱が現在も奉られています。

案内板より

だいぶかすれてますが、やはり最大のウリは義経北行伝説です!


小田仁王門とも呼ばれる。八脚門としては八戸市内に遺る唯一のもの

橋を渡って見えてくるのが本殿・拝殿です。

本殿・拝殿

先に説明した通り、かつては「小田毘沙門堂」などと称していましたが、明治初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され社号を小田八幡宮と改め正式な神社として独立。

そのため、御神体だった毘沙門天像の胎内仏である八幡神像を取り出し新たな御神体とし、毘沙門天像は新たに造営した毘沙門堂に移されたそうです。

ということで現在の御祭神は誉田別命だそうです。

神社にもこういういろいろな歴史があるんですねぇ。

義経堂

祀られていました。

こちらの方が八戸藩の財政に大きく貢献された方になるのでしょうか?

龍神も祀られてました。

毘沙門堂へ

こちらの橋を渡り、さらに奥に進むことができます。

鳥居をくぐり、先へ進みます。

途中、子安社があり、さらに奥へ進むと見えてきました。

毘沙門堂です。

ということは、こちらに義経が持参した毘沙門天像があるということでしょうか?
この厳かな雰囲気といい、歴史ロマンが溢れています。

おわりに

義経北行伝説が事実かどうかではなく、むしろ歴史ロマンが楽しめるかどうかがポイントだと私は思っています。
実際に義経が平泉を脱してここまできたのか。

事実でないとして、どうしてその話が現在まで伝わっているのか。

この一帯は義経が稲の作り方を教え、小さな田を拓いたことから「小田(こだ)」と命名されたという伝説が言い伝えられているそうです。

factベースで考えるなら、義経がここに来たかどうかではなく、義経がここに逃げ延びて来たという話が何百年と積み重なり現在にまで伝わっているという歴史は存在します。

そしてその歴史をこの、小田八幡宮は証明していると私は思いました。

小田八幡宮

所在地

〒039-1160 青森県八戸市小田1丁目2−1 小田八幡宮

電話番号0178-28-3007
駐車場あり
HPhttps://visithachinohe.com/spot/kodahachimangu/
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