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合わせて「関ヶ原の戦い・開戦地」と「小西行長陣跡」を行く!

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前回の続きと行きましょう。

前回の「島津義弘陣跡」からすぐ近くが今回の目的地です。
今回もすぐ近くに駐車場があります。

車を置いて歩を進めます。

そしてすぐ目につくのがこちら!
関ヶ原・開戦地です!!

関ヶ原の戦い・開戦地!

合戦は先陣が福島正則と決まっていたにもかかわらず、井伊直政の抜け駆けによって開始されたとされているが、笠谷和比古によると実際は抜け駆け行為は霧の中での偶発的な遭遇戦という形をとっており、戦闘開始はそれに続く福島正則の宇喜多隊に向けた銃撃戦に求めるべきとされている。 家康から諸将に七月七日付で出されている軍法の第四条で抜け駆けを厳禁している。そもそも合戦開始時においても、合戦後においても福島から井伊に対して何らの抗議めいた態度は示されておらず、井伊の開戦時における行為は、かなり抑制されたものであって、福島の名誉を傷つけないように配慮されたものと推測されている。

引用元:Wikipedia「関ヶ原の戦い」

東軍と西軍の布陣が終わったのが現在の時刻でいう午前6時頃と言われています。
この日、関ヶ原では濃い霧が出ており、周辺がほとんど見渡せなかったそうです。
そのために両軍とも下手に動くことができず、霧が晴れるのを待って2時間ほど対峙しています。

上記の引用部分のように、先陣が福島正則と決まっていたにもかかわらず、同じ東軍の井伊直政・松平忠吉が『物見』と称して抜け駆け行為を行います。井伊直政が松平忠吉に一番槍の手柄を上げさせようと鉄砲隊を引き連れて宇喜多隊に向けて発砲します。そして、宇喜多隊もこれに応戦するかたちで発砲します。

しれっと一番槍の手柄を取られた福島正則は、慌てて攻撃を仕掛けます。これが午前8時頃のできごと。
これがきっかけとして天下分け目の大戦「関ヶ原の戦い」が始まりました。

ここであの天下分け目の戦が始まったんですね。感慨深いです。

そして、すぐ近くにあるのがこちら。

小西行長陣跡です。

小西行長とは!?

小西 行長(こにし ゆきなが)は、洗礼名アウグスティヌスという名を持つキリシタン大名です。
一時期は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となります。文禄・慶長の役の際、加藤清正と先陣を争いました。関ヶ原の戦いにおいては西軍の将として奮戦するも敗北し、切腹を拒否して斬首されます。

関ヶ原本戦では、東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦。
しかし小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊が壊滅すると、続いて小西隊・宇喜多隊も崩れ、行長は伊吹山中に逃れます。

実は黒田官兵衛同様、キリシタン大名として有名な小西行長。洗礼名はアウグスティヌス。一度は敗走するも、その後自首し関ケ原領主であった竹中重門の家来により家康のもとへ送られ、三成らと共に斬首されます。

その際、浄土門の僧に経文を置かれることを拒否し、代わりにキリストとマリアのイコンを頭上に掲げたそうです。斬首された首は晒されましたが、改葬はキリシタンの手によりカトリック方式でとり行われたとされています。

ここであの、小西行長が奮闘していたんですね〜。
もう、ここまで来ると関ヶ原古戦場跡ってどこを見ても興奮しっぱなしになってしまいます。

開戦地、小西行長陣跡を見て満喫。すると上記の矢印を発見。
歩いて行けそうですね。宇喜多の陣跡を目指します。

小西行長陣跡

所在地:岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
駐車場:開戦地駐車場が近くにあります。
HP:http://www.kanko-sekigahara.jp/

 

合わせてチェック!

秀吉の交渉人―キリシタン大名小西行長 (メディアワークス文庫 な 1-5)

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