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早死には裏切りの代価?徳川へ寝返った小早川秀秋の陣跡へ

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さぁ、関ヶ原シリーズもいよいよラスト。

最後を飾るのはこの方しかいません。この天下分け目の戦、彼の動きが全ての流を決めたと言っても過言ではないはず。

そうです。小早川秀秋。今回は彼の陣跡を目指します!

小早川秀秋とは!?

羽柴秀吉の正室おね(北政所/高台院)の甥(兄、木下家定の五男)でしたが秀吉の養子となり、羽柴秀俊と名乗ったのち小早川隆景の養子となり、小早川家を継ぐことになります。

朝鮮の役では元帥として参加しながら槍をもって奮戦し、関ヶ原の戦いにおいては序盤戦というべき伏見城の戦いでは西軍の一員として戦功を上げます。

しかし、決戦の場である「関が原の戦い」において豊臣とゆかりが強いにもかかわらず西軍から東軍へと寝返り大谷吉継の軍勢に攻め込みます。

吉継は元より裏切りを予測していました。そのため、兵数で勝るはずの小早川軍は迎撃をうけて遁走。他の西軍側武将らの裏切りの連鎖が続き大谷軍は崩壊、それが契機となり西軍壊滅し、東軍が勝利を収める結果となります。

歴史が好きになってから知ったのですが、小早川秀秋っておねさんの甥だったんですね。小早川隆景の養子になって小早川家を継いでいたんですね〜。中学の歴史の授業では習った記憶がないなぁ。

単純に小早川秀秋という人物が裏切ったとしか記憶に残ってなかったです。勉強不足で申し訳ないです。

いざ、小早川秀秋陣跡へ

山道を上って行きます。

くそー。まだなのか~。個人的には他の陣跡よりも格段に辛い山道だなと感じました。
他の陣跡はこんなに辛くなかったはず。

もう諦めて引き返そうかと思うとこういう「いかにも」って感じの旗が出てきます。

そのため、「もう少しがんばるか」と思わせる上手い配置です。

そしてようやく到着。

すごいところに陣を構えたものです。

関ヶ原での小早川秀秋

関ヶ原本戦が始まったのは午前8時ごろであり、午前中は西軍有利に戦況が進展する中、傍観していた。度々使者を送ったにも関わらず傍観し続ける秀秋に家康は苛立っていたといい、秀秋の陣へ鉄砲を撃ち掛けたとも言う。ただし、この点について現代の実地調査では、地理的条件や当時使用されていた銃の銃声の大きさや、現場は合戦中であり騒々しいことから推測すると、秀秋の本陣まで銃声は聞こえなかった、もしくは家康からの銃撃であるとは識別できなかった可能性が高いことも指摘されている。
こうしたやり取りはありながらも、秀秋は最終的には家康の催促に応じ、松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった。この際、小早川勢で一手の大将を務めていた松野重元は主君の離反に納得できなかった為、無断で撤退している。秀秋に攻めかかられた大谷勢は寡兵ながらも平塚為広・戸田勝成とともによく戦って小早川勢を食い止めたが、秀秋の離反から連鎖的に生じた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らの離反を受け、大谷・平塚・戸田の諸将は討死した。

引用元:Wikipedia「小早川秀秋」

↑このへんの話は大谷吉継の際にも少しお話してますね。

この秀秋の離反については、当初から家老の稲葉正成・平岡頼勝と、その平岡の親戚である東軍の黒田長政が中心となって調略が行われており、長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所(高台院)様の為に動いている」と書かれた連書状が現存している。白川亨、三池純正らの、「高台院は西軍を支持していた」という異なる説やその他傍証もあり、この書状の内容について研究が待たれている(内容では北政所のために東軍につけとは直接言ってはいない)。また、本戦の開始前より離反することを黒田長政を通じて家康に伝えており、家康も奥平貞治を目付として派遣している。
一方で石田三成、大谷吉継ら西軍首脳も秀秋の行動に不審を感じていたらしく、豊臣秀頼が成人するまでの間の関白職と、上方2ヶ国の加増を約束して秀秋を慰留する書状も現存している。また、松尾山は12日の時点で「中国勢を置く」との増田長盛宛石田三成書状が確認されており、それまで陣取りしていた大垣城主・伊藤盛正を追い出して着陣している。関ヶ原決戦が計画的なものでなく、突発的なものであったとする説では、石田三成は小早川秀秋が松尾山に陣取ったことで腹背に脅威を得、大垣城を出ざるを得なかったとする。

引用元:Wikipedia「小早川秀秋」

大河ドラマ「軍師官兵衛」でも描かれていましたが黒田長政による調略。しかしながら、開戦前に既に離反することを家康に伝えていたというじゃないですか。つまり、西軍を裏切ることはシナリオ通りだったんですね。

まぁ、それを感じていた石田三成もいろいろ口説いていたようですが、それは実を結ばなかったというわけです。

ゼーゼー息を切らして、何回か引き返えそうかと考えた小早川秀秋陣跡。

見渡せば素晴らしい眺めです。東軍・西軍の動きがよく見えたことでしょう。

↑写真中央やや左上には石田光成陣跡が見えますね。

望遠カメラでアップにするとこんな感じ。

戦後の小早川秀秋

関が原の戦いの戦後論功行賞で岡山藩55万石の藩主となったが2年後に急死します。

大谷吉継が関ヶ原の合戦において自害する際、秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹しています。

そのため、「大谷吉継の祟り」によって狂乱して死亡に至ったという説があります。また、「石田三成の祟り」だったという話も。さらには、もともとお酒が大好きで「アルコール依存による病気」だったんじゃないかという説まであるんだとか。

死因なんてわかるはずもないですが、関ヶ原の戦から2年しか経っておらず、21歳の若さで死ぬということが上記のような「祟り」の話が噂されるのも仕方ないのかもしれませんね。

関ヶ原の戦いでは「裏切った」と言う言葉が代名詞のような小早川秀秋。当ブログにおいてもそのように言葉を使ってしまいました。

よくよく考えれば、東軍からも西軍からも調略されるくらいの人物なわけです。彼が動いた側に結果を出すということを三成も家康もわかっていたのでしょう。

つまり、関ヶ原の戦いの結果は小早川秀秋が決めた!と言ってもいいくらいじゃないですか?まぁ、受け取り方は人それぞれなんでしょうけどね。

小早川秀秋陣跡

住所:関ケ原町大字山中731-1
駐車場:あり
HP:http://www2.kanko-sekigahara.jp/historicsites-sekigahara/020.html

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