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都の千人から選ばれた美女!牛若丸こと源義経の母・常盤御前の墓

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先日まで続いた関ヶ原古戦場レポート。
今回は番外編的な話です。

この辺かな?っと武将達の陣跡を探していると目についたのがこちらの看板。

はい。「常盤御前の墓」です。

すみません。全然知りませんでした。こんなところに常盤御前のお墓があるなんて。

まよわず立ち寄ることにしました。

常盤御前とは!?

源義朝の側室になり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。後に一条長成との間に一条能成(長寛2年(1163年)生)や女子(生誕時期不明)を産んだ。
義朝の死から一条長成に嫁ぐまでの消息は『平治物語』『義経記』等に記されているが、事実がどのようなものであったかは不明である。軍記物語の『平治物語』『平家物語』などによれば、平清盛に請われて妾となり、一女(廊御方)を産んだとされるが、史実としては確認されていない。
やがて治承・寿永の乱が勃発し、義経は一連の戦いで活躍をするものの、異母兄である頼朝と対立、没落し追われる身の上となる。都を落ちたのちの文治2年(1186年)6月6日、常盤は京都の一条河崎観音堂(京の東北、鴨川西岸の感応寺)の辺りで義経の妹と共に鎌倉方に捕らわれている。義経が岩倉にいると証言したので捜索したが、すでに逃げた後で房主僧のみを捕らえたとある(『玉葉』)。『吾妻鏡』には同月13日に常盤と妹を鎌倉へ護送するかどうか問い合わせている記録があるが、送られた形跡はないので釈放されたものとみられる。常盤に関する記録はこれが最後である。

引用元:Wikipedia「常盤御前」

常盤御前は近衛天皇の中宮・九条院の雑仕女で、雑仕女の採用にあたり都の美女千人を集め、その百名の中から十名を選び、さらにその十名の中で一番の美女であったという都で一番の美女として有名ですね。

↑にもあるように源義朝の死後は、常盤御前の母が、京で自分の代わりに捕まったと聞き、子供を連れて平清盛の元に出頭。出頭した常盤御前は、母の助命を嘆願。平清盛は、幼い今若、乙若、牛若を助命。

「平治物語」「平家物語」などによれば、平清盛の妾となり、女の子を1人産んだとされています。 その後は、平清盛が公家の一条長成に常盤御前を託したそうです。

「夫の敵の妾になる」という波乱の人生ですね。それも美人ゆえなのでしょうか。

それを受け入れ耐え抜いたのも全ては可愛い子供たちのためなのですかね。

「母は強し」とはまさにこのことかと思います。

いざ、常盤御前の墓へ

「あれ、公園だ」っと思いきやしれっとその横にありました。

東国に走った牛若丸の行方を案じ、乳母の千種と跡を追ってきた常盤は土賊に襲われ息を引き取ります。それを哀れんだ山中の里人がここに葬り塚を築いという話。

実は常盤御前の最後は詳細不明。

このような逸話もいくつか存在するそうで、ここはその中の1つ。

真実はどうなのでしょうかね。
「美人は得」とも聞きますが、美人ゆえ大変な思いもたくさんしたであろう常盤御前。

実はひっそりと関ヶ原にお墓がありました。

関ヶ原の戦いの他にも「源平」好きな方は是非立ち寄ってみてはいかがでしょう?

常盤御前の墓

所在地:岐阜県不破郡関ケ原町山中534
駐車場:なし
HP:http://www2.kanko-sekigahara.jp/historicsites-other/016.html

 

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