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これが戦国の世の絆!関ヶ原で散った義に厚い名将・大谷吉継

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関ヶ原古戦場跡シリーズはまだまだ続きます。
今回も西軍の武将です。

相次ぐ裏切りにより西軍は敗退するわけですが、その中で石田三成を裏切らなかった義に厚い武将。
「大谷吉継」です。

おそらくですが、戦国ファンの中では非常に有名な美談をお持ちの大谷さん。個人的にも大好きです。
ただ、あまりメジャーではないですかね?少しマイナーよりの武将になるかもしれません。

大谷吉継とは!?

永禄2年(1559年)、近江国(滋賀県)で生まれ、天正元年(1573年)の浅井氏滅亡後、北近江を支配することになった羽柴秀吉に仕えるようになります。

その後、羽柴秀吉の播磨攻め、毛利攻め、賤ヶ岳の戦いにも参戦。賤ヶ岳の戦いでも先懸衆として石田三成らと共に活躍し、七本槍に匹敵する三振の太刀を賜ったとされています(参加していないという説もあるとか)。

天正17年(1589年)、越前国敦賀郡2万石を与えられ、敦賀城主へ。翌年には小田原攻めにも出陣。
このころ、真田信繁に娘を嫁がせています。

文禄3年(1593年)ごろから病を発症したと言われ、公の場に姿を見せなくなります。
この病というのがハンセン病だったのではないかという説が有力とされています。

吉継は家康の能力を「天下の主になる人物だ」と高く評価。このとき、家康は会津征伐が終わったら、吉継を12万石に加増すると約束したといわれます。実は徳川家康も戦上手と称賛される吉継を高く評価していました。

吉継は家康軍に合流すべく、3000の兵を率いて出陣。途中、石田三成の居城、佐和山城に立ち寄ります。三成と家康を仲直りさせるため、三成の息子・石田重家を自分の軍に入れようとしためだといわれています。しかし、三成から挙兵して家康を討つと打ち明けられます。吉継は家康と戦っては勝ち目はないと、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じます。

大谷吉継は戦上手として家康からも秀吉からも評価されている人物なのです。今年で言えばこれから描かれるかもしれませんが真田幸村に娘を嫁がせているので、義理の父ということにもなりますね。

いざ、「大谷吉継陣跡」へ

いくつかルートがあるのでしょうが、見つけた看板を頼りに私はこのような形でアプローチすることになりました。

鳥居の後ろには線路があり、それを抜けると若宮八幡神社があります。

そして、大谷吉継の文字。先に近い陣跡へ行きます。
なかなかの山道。女性は間違ってもヒールで来てはだめですね。
スニーカー的な動きやすい格好で行きましょう。

大谷吉継陣跡

厳しい山道を登り汗を流しながら、息を切らしながらようやく到着。

こちらが大谷吉継陣跡。

松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返り大谷隊を攻撃するが、予てから小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し2、3回と繰り返し山へ追い返したという。その激戦ぶりは東軍から小早川の「監視役」として派遣されていた奥平貞治が重傷を負った(後に死亡)ことからも伺える。
しかし吉継が追撃を仕掛けたところへ、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。これにより大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け防御の限界を超えて壊滅、吉継も自害した。

引用元:Wikipedia「大谷吉継」

実は小早川秀秋が黒田長政からの調略を受けているのではないかと危惧し、石田三成は深夜に松尾山を訪れて「豊臣秀頼が15歳になるまで秀秋の関白の地位を保証する」といった内容の起請文を発行し、裏切り防止に最大限の配慮もしています。

しかし、それでも裏切った小早川秀秋。ある意味ですごい男です。彼のことは彼の陣跡に行った際にまとめます。

とにかく西軍の武将のことを話すと「秀秋が裏切ったから」という話しかできないくらいですね。

あれだけ言っても小早川秀秋があやしいと、わざと石田三成と小早川秀秋の間に自分は陣をはります。さらに小早川軍に備えて脇坂、朽木、小川、赤座らを配置します。しかし彼らも寝返り攻撃してくる始末。

正面、側面、背面を圧倒的多数の兵に攻められたらそら負けますよ。大谷軍も衝撃の展開だったでしょうねきっと。

 

ここでそんな予想を上回る現実を知ったときはどのような心中だったのでしょうか。
私だったら「まじか?ドッキリではないんか?」とか言って現実を受け入れられないかもしれません。

なんといっても大谷吉継は既に病の影響か目が見えない状態だったそうです。
耳で入る情報からでしか判断できない状態のため状況判断は大変だったと思います。
備えのはずの脇坂・朽木・小川・赤座の裏切り。まさに「寝耳に水」状態ですね。
…。はい、うまいこと言ったつもりです。すみません。

陣跡で思いをはせた後は当然こちら。

墓を目指します。

矢印の誘導により迷うことなく行くことができました。
ですが、なかなかの山道でした。

大谷吉継の墓

こちらが吉継の墓。

敗戦が明らかになると湯浅五助は「御合戦御負け」と言い、大谷吉継は「自ら脇差で腹を突き、湯浅五助に介錯させ自刃したそうです。享年42歳。

大変だったろうなぁ~とお墓を眺めていると隣にもう一つお墓があることに気づきました。

湯浅五助とのエピソード

平尾氏箚記に以下のような話があります。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで、小早川秀秋の攻撃によって大谷隊が壊滅したとき、切腹した大谷吉継の介錯を務めた。この際、ライ病(ハンセン病)を患っていた吉継は、自害する前に五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と申し伝えて果てた。五助は主君の命を守り、吉継の首を戦場から離れた場所に埋めた。埋め終わった時に、五助は藤堂高虎の軍に所属する藤堂高刑に発見されると、「私の首の代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と頼み、藤堂高刑はそれを受けて五助の首を取った。藤堂高虎は、甥の高刑が湯浅五助の首を取ったことに喜び、徳川家康の本陣に報告した。五助の首を見せた際、家康は手柄を褒めつつ、大谷吉継の側近である五助なら主君の居場所も知っているはずと、高刑を詰問した。高刑は五助との約束を守り頑として在処を言わなかった。その姿勢に家康は感心し、自分の槍と刀を与えたという

引用元:Wikipedia「湯浅五助」

このような逸話もあり大谷吉継の隣に子孫の手によって湯浅五助のお墓が建てられています。
素敵な話です。

大谷吉継と石田三成との関係

さて、そもそもはの話です。

会津征伐が終わったら「吉継を12万石に加増する」と徳川家康と約束がされていたとう話です。しかし、それを蹴って石田三成に手を貸す吉継。そこには光成との友情秘話があるのです。

天正15年(1587年)、大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していった。この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ち、周りの者達はさらにその茶を飲むのをためらったが、三成はその膿ごと茶を飲み干し、おいしいので全部飲んでしまったからもう一杯茶を注いでほしいと気を利かせたとされる)、気軽に話しかけてきた。

引用元:Wikipedia「大谷吉継」

戦国ファンの間では有名な話ですね。

こんなことをしていても私は病院で働く看護師のはしくれ。病を抱えた人のコンプレックスを払拭することが困難なことはよく知っています。病である自分を避ける人たちの中、自分を受け入れてくれた三成の存在は、吉継の中ではとても大きかったのでしょう。

戦に勝てないとわかっていても、友人のために命を張る大谷吉継。
武士の中の武士です。

美談に溢れる大谷吉継。
彼の男気に魅了されながらさらに関ヶ原を闊歩します。

大谷吉継墓

所在地:関ケ原町大字藤下678-2
HP:http://www.kanko-sekigahara.jp/

 

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