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神功皇后陵に行ってきたので三韓征伐や武内宿禰の話もしてみた件

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今回は奈良の御陵をご紹介します。

奈良県には数多くの御陵が存在しています。御陵というのは天皇、皇后、太皇太后及び皇太后を葬る所とされています。

神功皇后陵

そして、今回訪れるのが神功皇后陵です。

みなさん神功皇后のことはご存じですか?

恥ずかしながら古代史を勉強するまで私は全然知りませんでした。

…ですが、現在では古代史において「ヤマトタケル」と「神宮皇后」がトップクラスに好きなのです。

私が無知ゆえ、てっきり九州あたりにあるんかなと思っていたら奈良県にありました。

当時住んでいたところから自転車で行ける距離に。

迷わず訪れた次第です。

神功皇后(じんぐうこうごう)とは!?

神功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年 – 神功皇后69年4月17日)は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高?媛(かずらきのたかぬかひめ)。応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。

引用元:Wikipedia「神功皇后」

少し補足すると、ヤマトタケルの息子・仲哀天皇の奥さんと言った方がわかりやすいですかね。

仲哀天皇との間に生まれたのが第15代天皇の応神天皇なのです。

いざ、神功皇后陵(じんぐうこうごうりょう)へ

神功皇后陵の案内板

陵  名:狭城盾列池上陵(さきのたてなみのいけのへのみささぎ)

教科書でもおなじみの前方後円墳です。

神功皇后陵石段

神功皇后陵/石段

石段を上り、まっすぐに進みます。

ついに神功皇后陵(じんぐうこうごうりょう)へ到着

神功皇后陵

神功皇后陵

ついに神功皇后陵に到着です。

神功皇后陵

神功皇后陵

こちらに神功皇后が眠られているのでしょうか。

神話に名を刻む神功皇后の御陵に来れるなんて光栄の極み。

なぜ神功皇后が好きかというと、真実かどうかはさておき逸話が凄いお方なのです。

ではここからは少し神功皇后のお話しをしましょう。

神功皇后の三韓征伐のお話

夫の仲哀天皇の急死(200年)後、神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。仲哀9(200)年3月1日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐した。その後に住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。

引用元:Wikipedia「三韓征伐」

一番簡単にまとまっていたのでウィキペディアから引用させていただきました。

こまかく説明するとすんごく長くなるのでウチのブログにはこのくらいでちょうどいいかと。

豊臣秀吉が朝鮮出兵をするはるか昔に海を越えて戦をした神功皇后。

女性なのに、妊娠中だというのに!とてつもなくすごいお方です。

西の国に渡るなら、天地の神、山の神、海河の神と、私(天照大神)の魂を船の上に祭り、木の灰をかごに入れて、箸と皿をたくさん作り、それらを全部、海の上に散らし、浮かべて渡るがよい。」と、言われました。

神功皇后は、神の教えたとおりに、軍隊を整え、多くの船を浮かべて、住吉3神を、守り神として、海を渡りました。
その時、たくさんの魚が、現われ出てきて、神宮皇后の船を背負って渡りました。また、追い風が盛んに吹いて、船は波のまにまにものすごい勢いで、進みました。
神功皇后の乗った船の波が、新羅の国に押しあがって、波が国の半分を侵しました。
その様子を見ていた新羅の国王は驚き、畏れつつしんで、戦うことなく、「これから後は、命令にしたがい、毎年、多くの貢物を献上する船を送り、天地のあらんかぎりお仕えしましょう」と言いました。新羅が降伏したことを聞いた、百済、高句麗も、そのとき、すぐに降伏しました。

引用元:住吉三神

↑とても有名な話です。魚が船を運んでくれます。追い風も吹きます。新羅の国の半分が波に包まれます。

…凄すぎて絶句もんですね。そりゃ戦もしないで降伏もすることでしょう。

さらにこんな話も。

渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。

引用元:Wikipedia「神功皇后」

↑石でお腹を冷やして出産を遅らせてしまいます。この鎮懐石のおかげで、妊娠から出産まで15ヶ月、筑紫に帰ってから、福岡県宇美町で応神天皇を産むことができたと。

いや~、医学的には厳しいですよね。

実は上記の神功皇后の逸話・伝説ですが否定的な意見も数多くあります。

また、「神功皇后」は教科書にも載っていた日本神話を語る上での重要な人物です。

しかし戦後になると「神功皇后」や「三韓征伐」など話が軍国主義の象徴とみなされ、GHQにより教科書から削除され封印されてしまいました。

どうりで私が知らなかったわけだ。なんつって。

確かに中学の教科書でこんな面白そうな話習わなかったなぁ~と思います。

けっして授業中寝ていたわけではありません。

理数系でしたけど、社会の歴史は好きな教科でしたよ?

さらに、神功皇后と息子の応神天皇にはついてこんな疑惑もあります。

神功皇后の夫にして、応神天皇の父親は仲哀天皇ではない説

というのも上記にもあるように神功皇后の妊娠期間がやはりおかしいという話。

そして、どうやら怪しいとされる人物も数名名前が挙がるのですが、特に怪しいとされる人物が武内宿禰という人物なのです。

武内宿禰(たけうちすくね)とは!?

『日本書紀』では「武内宿禰」、『古事記』では「建内宿禰」、他文献では「建内足尼」とも表記される。「宿禰」は尊称で、名称は「勇猛な、内廷の宿禰」の意とされる。
景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。

引用元:Wikipedia「武内宿禰」

景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代に渡り天皇を支えた人物です。

もちろん仲哀天皇亡き後、神功皇后をお支えしています。

これが疑惑につながるようです。

仲哀天皇暗殺事件?

神功皇后が香椎の宮で神懸りになった時、暗闇の中、琴を弾いていた。神(神功皇后)が、「西の方に国がある。金銀をはじめ、目の輝くたくさんの宝物が多くある。その国をあげようか?」と言ったが、「高いところから眺めても、西の方には国はなく、ただ海があるだけ」と反論。

嘘つきな神と思い、琴を退け、琴を弾かなくなった。神は怒り、「この国はオマエが治めるべき国ではない!」と言われ、庭に控えていた建内宿禰に諫められたので、また適当に琴を弾き始めた。

間もなく琴の音が聞こえなくなった。明かりをともしてみると、急死していた。状況的に暗殺が濃厚だが、公式記録的には天皇暗殺には数えられていない。

引用元:仲哀天皇 – 神社と古事記

これもすごい話です。当時とはいえ、天皇に向かって神懸かりをしていたとしても「この国はオマエが治めるべき国ではない!」と言い放てるのでしょうか。

しまいにゃ、「琴の音が聞こえなくなったら死んでいた。」って天皇の最後ってこんなんでいいの?

ちなみに仲哀天皇の父・ヤマトタケルさんは白鳥になって飛んで行ってます。この差はいったい…。

ちなみに上記の状況は朝鮮に攻めようという意見の神功皇后と武内宿禰VS仲哀天皇。数の上では不利な天皇さま。

そして邪魔者はいなくなった。その結果、三韓征伐となるのです。

これは…、暗殺と言ってもいいのかもしれないと古代史ファンの間ではもちきり?の話ですかね。

そしてこの記事の上の方でも触れた、遅らせた妊娠期間。

そうです。実は神功皇后と武内宿禰ができていたんじゃないか?という説がここで浮かんでくるのです。

15か月に及ぶ妊娠期間も正確にはその期間に武内宿禰の子を宿していたのではないかと仮説がたつわけです。

三韓征伐からの帰国

『日本書紀』によれば、新羅征討(三韓征伐)中に仲哀天皇が崩御し、神功皇后は筑紫で誉田別尊(ほむたわけのみこと、応神天皇)を出産する。それを聞いた麛坂皇子と忍熊皇子は、次の皇位が幼い皇子に決まることを恐れ、共謀して筑紫から凱旋する皇后軍を迎撃しようとした。
皇子らは仲哀天皇の御陵造営のためと偽って、播磨赤石(現在の兵庫県明石市)に陣地を構築し、倉見別(犬上君の祖)と五十狭茅宿禰(いさちのすくね、伊佐比宿禰とも)を将軍として東国兵を起こさせた。ところが菟餓野(とがの、比定地未詳)で反乱の成否を占う狩を行った際に、麛坂皇子が猪に襲われて薨去したため、不吉な前兆に恐れをなした忍熊王は住吉に後退した。
一方、神功皇后は海路(瀬戸内海)の要所に天照大神・住吉大神を鎮祭し、紀伊に上陸した。皇子軍は更に退いて菟道(うじ:宇治)に陣立てし、武内宿禰と武振熊(和珥臣の祖)を将軍とする皇后軍に挑んだが、武内宿禰の策略によって弓・刀を失い、逃走した果てに逢坂(現・滋賀県大津市の逢坂)にて敗れた(『古事記』では戦闘場面で武内宿禰は登場せず、全て武振熊の功績とする)。逃げ場を失った皇子は、五十狭茅宿禰とともに瀬田川に投身した。その遺体は数日後に菟道河から発見されたという。

引用元:Wikipedia「忍熊皇子」

実は仲哀天皇には大中姫命という奥様もおられ、その子供たちが皇位を狙ったわけです。異母兄弟間での対立抗争。

もちろんそこで応神天皇側に立ち、邪魔者を追い払ったのも「武内宿禰」さん。

それは自分の子を天皇にしたかったからなのでしょうか。

ん~、事実はわかりません。

わかりませんが、本当だったら面白いですね。

おわりに

神功皇后陵

話の尽きない神功皇后。いいですね。面白いです。

当ブログにおいては実在説と非実在説をどうこう言えるほど私の知識が詳しくないためそこにはノーコメント。

噂、仮説、都市伝説を検証することもできません。

そういうレベルの高い話は専門家にお願いしたく思います。

個人的には「ロマンがあっていいじゃないか!だって神話だもん!」

こう言ってしまっては元も子もない感じでしょうか。すみません、ただの看護師なもんで。

これを機会に日本神話に興味を持たれた方がいたら嬉しい限り。

古事記・日本書紀っておもいのほか面白いです。

この後は隣接する山稜八幡神社を参拝します。なぜなら御祭神は神功皇后だからです。

LINK 山稜八幡神社は気長足媛命を祀る神功皇后陵と隣接する社~

 

神功皇后陵

所在地:奈良県奈良市山陵町

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