清盛さん贔屓のmasayanです。いよいよこのシリーズ、「清盛さん巡り」も終盤戦とあいなります。
前回の記事は御覧いただけていますか?前回の「大和田泊」とも関連する話となります。
↑まだ読んでないよってことであれば先に目を通していただけると幸いです。
では、話を戻しましょう。
前回で触れたように、清盛さんが新たに平家のための都、「福原京」を造るにあたって要となったのが港造り。
「大和田泊」を整備し、日宋貿易で富を得る。そのためにも港造りは必須条件でした。
しかしながら、防風に大波と工事は難航。そこで、清盛さんは経が島を波浪を避ける目的で築造します。
今回は清盛さんの「経が島」の関連地を訪れます。
それがこちら、「来迎寺」です。
来迎寺(らいごうじ)とは!?
寺伝によると、平清盛が経が島を築くとき、暴風大波のため進まず、讃岐香川領主大井民部の子、17歳になる松王丸が進んで人柱になり完成したので、松王丸の菩提を弔うために寺を建て、念仏の道場としたという。
引用元:Wikipedia「来迎寺」
経が島を築く際に松王丸が人柱になっており、こちらで祀られているというではないですか。
お詳しい方なら、「おや?」と思われるはず。
なぜなら、「経が島」をご存知の方はこのように聞いているからではないでしょうか。
経が島(きょうがしま)とは!?
経が島(きょうがしま)は、日宋貿易の拠点である大輪田泊(摂津国)に交易の拡大と風雨による波浪を避ける目的で築造された人工島。承安3年(1173年)に竣工する。その広さは『平家物語』に「一里三十六町」とあることから、37ヘクタールと推定されている。経ヶ島・経の島とも書く。後世、兵庫津にちなんで兵庫島とも称された。
塩槌山を切り崩した土で海を埋め立てた。工事の際、それが難航したために迷信を信じる貴族たちが海神の怒りを鎮めるために人身御供をすることになる。一説には、平清盛は何とか人柱を捧げずに埋め立てようと考えて、石の一つ一つに一切経を書いて埋め立てに使う(経石)。その後、事故などもなく無事に工事が終わったためにお経を広げたような扇の形をしたこの島を「経が島」と呼ぶようになったとされる。引用元:Wikipedia「経が島」
↑私もこのように聞いておりました。
清盛さんは人身御供を良しとせず、その代わりに経文を書いた石を沈めた。
それゆえの「経が島」ではなかったのか…。
これは是非、この目で見てみようということで「来迎寺」を訪れます。
いざ、来迎寺へ
松王小児入海の碑
二条天皇の御代、平清盛公はわが国の貿易の中心地はこの兵庫であるとの確信をもって、良港を築くため海岸線を埋め立てる工事に着手した。しかし、潮流が早く非常な難工事で、完成目前に押し流されることが二度に及んだ。時の陰陽師は「これは竜神の怒りである。30人の人柱と一切経を書き写した石を沈めると成就するであろう」と言上した。
そこで清盛は生田の森に隠れ関所を構え通行の旅人を捕らえさせたが、肉親の悲歎は大きかった。
このとき、清盛の侍童で香川の城主田井民部の嫡男松王17才が「人柱のことは罪が深い。私一人を身代わりに沈めて下さい」と申し出た。
応保元年(1161年)7月13日、千僧読経のうちに松王は海底に沈み経が島造営は完成した。
現在の神戸港の生い立ちである。天皇は大いに感動されて、松王の菩提を長く弔うため当寺を建立し、念仏の道場とされた。依て経島山来迎寺不断院と号し、通称築島寺の縁起である。引用元:案内板
…ふむふむ。と読んでいると気になるものを発見。
となりにあったのが祇王、妓女の塔。
妓王妓女の塔
妓王と妓女は姉妹でともに京堀川の白拍子であった。清盛の寵愛を得て優雅な日を送っていたが、清盛の心が仏御前に傾くに及び世の無常を歎き、嵯峨野に庵(いまの妓王寺)を結び仏門に入った。
その後、平家が壇の浦で破れたため、平家ゆかりの兵庫の八棟寺(当寺の末寺)に住持して一門の菩提を弔った。引用元:案内板
とのことです。なるほど。
ちなみに、京都にある祇王寺に関してはこちらにレポートがございます。
↑よろしければ合わせてご覧ください。
そして、こちらが松王丸の供養塔。
こうして残っていることが真実なのか。
都合の悪いことには触れず、経が島を人身御供なしで築いたということの方が好感度が良いということなのか…。
真実はわかりませんが、今もこうして供養塔はあることは事実。
お詳しい方がおられたら是非教えていただきたいものです。
清盛ファンとしては気になるところですね。
神戸にお越しの際は立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
来迎寺
所在地:兵庫県神戸市兵庫区島上町2-1-3
電話:078-681-0397
駐車場:あり
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