軍師・黒田官兵衛の父にして「筑前さん」こと黒田職隆の廟所

豊臣秀吉を支えた天才軍師・黒田官兵衛。
大河ドラマ「軍師官兵衛」においてはその才覚ぶりが見事なまでに表現されれていました。

しかし、その天才軍師・黒田官兵衛を育てた父親・黒田職隆も素晴らしい人物でした。

今回は官兵衛ゆかりの地として父・職隆の廟所を訪れました。

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黒田職隆とは!?

注目されることの少ない職隆ですが、君主・小寺政職(まさもと)が家臣の反発を抑え、「小寺」姓と「職」の一字を与えてまで一門に迎えたほど、優秀な人物でした。
当主時代には「長屋を建て身分に関わらずに住まわせ、情報・配下を収集した」。官兵衛幽閉時には「職隆の命に従うことを誓った書状を家臣から送られ当主を務めた」。「織田信長に反逆した政職の息子を密かに引き取り養育した」など、官兵衛同様、知略・人望・忠義に関する逸話が残っています。なによりも人格者で知られる職隆。彼が眠るこの場所は、 時代を超え今も地元の人から「筑前さん」と呼ばれ親しまれています。

引用元:山陽電車とめぐる軍師黒田官兵衛 | 黒田職隆廟所

「軍師官兵衛」においてもその人格者ぶり、俳優の柴田恭兵さんが見事に演じておられたことが記憶に新しいです。

いざ、黒田職隆廟所へ

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大河ドラマの影響なのでしょうか、代わる代わる人が訪れていました。
もちろん、俺もその一人なのですが。

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「筑前さん」として今も慕われるほどの人物。

主君の小寺政職は織田氏に与するが、天正6年(1578年)に摂津有岡城主・荒木村重の織田氏に対する謀反に政職も呼応する向きを見せた。孝高は村重を説得するために有岡城に乗り込んだが失敗し、捕縛され牢に入れられた。孝高が幽閉され音信不通になってしまった事で黒田氏は当主不在となったが、この時、孝高の重臣7名が連署で主が不在の間は職隆の命に従う事を誓った書状を職隆に宛てて送っている。こうした要請に応じて職隆は孝高が救出されるまでの間、黒田家当主の座に復帰し、織田氏から離反した小寺氏には与さず織田氏に変わらず味方する姿勢を示した。天正8年(1580年)、荒木村重の謀反鎮圧に伴い小寺政職が逃亡すると、その子・氏職を密かに引き取って養育していたという。その清廉で忠義一徹なところを羽柴秀吉にも賞賛され、後に姫路城の留守居を任された。

引用元:Wikipedia「黒田職隆」

秀吉も認めた人物ということですね。今なお愛される由縁でもあるんかな。さすがです。

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しっかり黒田の家紋も刻まれております。

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天正13年(1585年)8月22日、62歳で死去されたのち、第9代福岡藩主・黒田斉隆治世の時、墓所の発見が姫路の心光寺の僧・入誉上人より福岡藩黒田家に言上されました。そして、新たに玉垣を廻らし墓所が築造された。という経緯があるそうです。

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廟所は、南北約15m、東西約12m。屋内に五輪塔が建っています。
五輪塔は角礫質凝灰岩製で、地輪に刻銘があります。

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現在の廟屋は昭和52(1977)年に地元自治会が整備したものです。

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こじんまりとした供養塔。
今も綺麗に花が手向けられていました。

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黒田家ファンの方はぜひ訪れてみたいところだと思います。
「官兵衛ゆかりの地めぐり」をされる方は是非チェックしてみてください。

 

黒田職隆廟所

所在地:姫路市飾磨区妻鹿字元宮372番1

合わせてチェック!
 
 

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  2. …のような記事を予定しております。現在、順調に執筆中!お見逃しなく!!

   
 

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