続いて向かったのが姫路にある「御着」。
もちろん目指すは「御着城跡」です。
大河ドラマ「軍師官兵衛」でも描かれていましたが、豊臣秀吉を天下人まで押し上げた天才軍師・黒田官兵衛。
黒田家が仕えていた人物が小寺政職なのです。
小寺政職とは!?
享禄2年(1529年)、播磨御着城主・小寺則職の長男として誕生する。小寺氏は、赤松氏の分家にあたり、祖父・政隆(まさたか)の代までは姫路城を本拠としていた。
天文12年(1543年)から塩田城主であった遠戚である小寺福職(とみもと)の補佐役として塩田城へ在城し、天文14年(1545年)に父から御着城主を譲られる。小寺氏は代々、播磨国守護・赤松氏の重臣として仕え、赤松晴政から偏諱(「政」の字)を受け、政職と名乗る。その後は幾たびかの小競り合いを制し、播磨平野を中心として半独立勢力として割拠した。政職は外様家臣であった小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)の能力を認め、自らの従姪(櫛橋氏の娘・光)を娶らせるなど厚遇している。引用元:Wikipedia「小寺政職」
その後、勢力を伸ばした小田信長は播磨諸侯に人質の提出を命じます。
政職は子の氏職が病弱であったため、黒田官兵衛の子・松寿丸を代わりに差し出します。
そして天正6年(1578年)に荒木村重が摂津有岡城で信長に謀反を起こすと、これに呼応して信長に背き、毛利氏と通じます。
天正7年(1579年)に有岡城が、天正8年(1580年)に三木城がそれぞれ織田軍の攻撃によって落城。御着城も天正8年に落城。
政職は英賀を経て毛利領の備後国鞆の浦へ落ち延びたという話です。
そして天正12年(1584年)5月に鞆で没したとのこと。
個人的には「軍師官兵衛」において、鼻を赤くした片岡鶴太郎さんのイメージが強すぎる感じです。
「頼りない上司」といった感じを見事に演じておられました。
それが頭に入っていると、「小寺大明神」という言葉。
気になってきます。
いざ、小寺大明神へ
石段を上ってみるとただの公園でした。
「しづかなる 姿のままにふるさとの 山川みえてかにかくうれし 政隆」の歌碑
↑稲荷神社。
こちらが拝殿
小寺大明神はこちらですね。
この地は1519年に小寺政隆が築城したと言われる御着城の本丸跡に位置して
いる。
小寺大明神は1755年の「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」に「今
此所ニ小寺殿社アリ」と注記されており、社には御着城の城主であった小寺一族
と御着城に関係する人々をお祀りしている。-現地案内板より-
こちらが御着城の本丸だったんですね。
こじんまりとしてますが、シンプルな社です。
御着城はその後、秀吉の播磨侵攻の際落城し廃城となっています。
神社や寺だけでなく城も好きなmasayanとしてはお城が残っていたらと思ってしまいます。
ん~、残念。
国道を挟んで反対側へ。
御着城跡公園、二の丸跡へ向かいます。
合わせて読みたい 御着城とは戦国時代の天才軍師・黒田官兵衛が仕えた小寺政職の城
小寺大明神
所在地:兵庫県姫路市御国野町御着
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