新薬師寺のすぐお隣にこちらの神社があります。
【鏡神社】です。
聞けば奈良で有名な春日大社の本殿が譲渡されているとのことです。
そして、御祭神は「藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)」です。
藤原広嗣って何者?ってことで調べてみました。
藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)ってどういう人?
聖武天皇の時代に朝廷において圧倒的な権力を誇っていた藤原四兄弟が相次いで亡くなった天平9年(737年)の9月28日に従六位上から従五位下に昇叙される。天平10年(738年)4月22日、大養徳(大和)守を兼任する。なお、叙爵以降に式部少輔に任官されている。朝廷内で反藤原氏勢力が台頭した背景のもと、親族への誹謗を理由に同年12月4日に大宰少弐に左遷される。
広嗣は左遷を不服とし、天地による災厄の元凶は反藤原勢力の要である右衛士督・吉備真備と僧正・玄昉に起因するとの上奏文を朝廷に送るが、時の権力者右大臣(のち左大臣)・橘諸兄はこれを謀反と受け取った。真備と玄昉の起用を進めたのは諸兄であり、疫病により被害を受けた民心安定策を批判するなど、その内実は諸兄その人への批判であることは明白であった。聖武天皇はこれに対して広嗣の召喚の詔勅を出す。
広嗣は勅に従わず、天平12年(740年)弟・綱手とともに大宰府の手勢や隼人などを加えた1万余の兵力を率いて反乱を起こした。しかし大野東人を大将軍とする追討軍に敗走し、最後は肥前国松浦郡で捕らえられ、同国唐津にて処刑された(藤原広嗣の乱)。これによって多くの式家関係者が処分を受け、奈良時代末期には一時的には政治の実権を握るものの、後世における式家の不振を招く要因の一つになった。
広嗣の怨霊を鎮めるため、唐津に広嗣を祀る鏡神社が創建された。新薬師寺の西隣に鎮座する鏡神社はその勧請を受けたものである。引用元:Wikipedia「藤原広嗣」
古の人々は怨霊というもの本当に恐れたんでしょうね。
そんな昔からある鏡神社。歴史も豊富に詰まってますね!
いざ、鏡神社(かがみじんじゃ)へ
がっしりと安定した鳥居です。
奈良市指定文化財 鏡神社 本殿 一棟
この神社の本殿は、春日移しの社であります。春日大社古記録によると、延享三年(1746年)春日大社が第四十六次式年遷宮による御造営のとき旧本殿のうち第三殿を譲渡した、とある。
昭和三十四年の修理のときに屋根裏から『三ノ御殿』と墨書銘が二ヶ所から発見された。
遺跡当時に近い形状を現在でも残していて価値が高い。説明看板より
なんと、あの春日大社の元第三殿というからまたすごい!
↑拝殿
狛犬さま。玉乗りタイプ&子供付きタイプ。
どちらもも可愛いです。
拝殿の後方に少しだけ見える赤い社。
こちらが春日大社の第三殿だったものです。春日造りの歴史ある社ですね。
今見れば普通に見える神社も歴史をたどれば怨霊を恐れ、陰陽道に従い、神道の春日大社の大三殿が譲渡されと目には見えない流れがあるんですねぇ。すごい!
そして、摂社へ
そして入り口から離れて摂社へ。
比賣神社
御祭神:十一皇女
比売神社は本神社東側の鳥居から10mほど東、新薬師寺のすぐ東南に鎮座されています。古来より「高貴の姫君の墓」比売塚(ひめづか)として伝えられていた所で、昭和56年(1981年)より十市皇女(とおちのひめみこ)を祭神として祀られるようになっています。十市皇女の父君は、大海人皇子(後の天武天皇)、母は額田姫王。天智天皇の皇子、大友皇子(後の弘文天皇)の妃であり、葛野王の母です。
「比売神社由緒」
この鏡神社、比賣神社に挟まれる形で新薬師寺があります。
新薬師寺に訪れた際には是非、この鏡神社も注目して一緒に参拝されてみてはいかがでしょう?素通りしてはもったいないですよ。
合わせて読みたい 新薬師寺の霊験あらたかな国宝・最古最大の十二神将立像に刮目せよ!
南都鏡神社
所在地:奈良県奈良市高畑町468
電話:0742-22-3900
HP:http://www1.kcn.ne.jp/~fujishrs/index.html
コメント