続いて向かったのが御陵です!
当ブログにおいては「御陵シリーズ」もそこそこあるのですが、今回訪れたのが大阪のこちらです。
【仲哀天皇陵(ちゅうあいてんのうりょう)】です!
仲哀天皇と聞いて、ぱっと頭に浮かぶ方は古事記・日本書紀に精通されている方くらいじゃないでしょうか。
では、参りましょう。
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)とは!?
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、成務天皇18年? – 仲哀天皇9年2月6日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日 – 同9年2月6日)。足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、帯中日子天皇(古事記)。「タラシヒコ」という称号は12代景行、13代成務、14代仲哀の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、35代皇極の両天皇も同じ称号を持つことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであり、12、13、14代の称号は後世の造作ということになり、仲哀天皇の実在性には疑問が出されている(仲哀天皇架空説)。 容姿端正、身長一丈。
神功皇后の夫で、応神天皇の父とされるが、実在性を含めて諸事績の史実性には疑いが持たれる。引用元:Wikipedia「仲哀天皇」
私の中で記紀(古事記・日本書紀)において好きな人物にヤマトタケルがいるのですが、彼の子であり、ヤマトタケルの次に好きな神宮皇后の夫にあたるのが今回の主役・仲哀天皇になります。
先日、応神天皇御陵に行ったわけですがわりと近いところの今回の仲哀天皇陵があります。
父と子。近くで眠られているのはせめてもの配慮になるのでしょうか?
↑の神功皇后陵の話ではヤマトタケルが父親ではなくあの人物ではないのか?という噂話にも触れています。興味がある方はぜひご覧ください。
いざ、仲哀天皇陵(ちゅうあいてんのうりょう)へ
綺麗な木々が見えます。これまた住宅街の中にあり、少し迷いました。
ようやく御陵正面に到着
ここが、仲哀天皇御陵!
仲哀天皇陵は墳丘が長242メートル、周濠幅が約50メートルの大型前方後円墳です。
古市古墳群では4番目の大きさです。
別名「岡ミサンザイ古墳」とも呼ばれ、羽曳野丘陵の北東部外縁に位置しています。
実は記紀においてもあまり記載がない仲哀天皇。
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仲哀天皇は神功皇后帯同で、熊襲(曽)征伐のために筑紫の詞志比宮(香稚宮)に出征された。 そしてここで皇后は、平定の大業を定めるために神懸りされたが、その神託を天皇は受け入れず、 天皇は神の怒りを受けて琴を弾きながら崩御された。
引用元:仲哀天皇:玄松子の祭神記
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『日本書紀』では天皇五十二歳の時、熊襲の流矢に当って崩御されたとある。
引用元:仲哀天皇:玄松子の祭神記
ヤマトタケルや神宮皇后と比べると少し扱いが弱い仲哀天皇。
それでもヤマトタケルの子であり、神宮皇后との間には武の神として称えられる応神天皇が生まれます。
仲哀天皇がいなければまた違う話になってしまうのも事実。まぁ、存在してないだのと諸説ありますが。
個人的には存在していて欲しいですし、こうして御陵を訪ねることができたのも嬉しい限りです。
仲哀天皇陵
所在地:大阪府藤井寺市藤井寺4丁目
コメント
この御陵は家から徒歩圏内にあります。
でも、仲哀天皇って、名前も事跡もなんだかな~……ですよね(^^ゞ
ファンだという方がいてくださったらいいなぁ。
コメントありがとうございます。
仲哀天皇ってなかなか知ってる人もいないですよね。でも、こんな風に埼玉から見に行っちゃう人間もいるんでね。
中にはそういうファンもついていると思います。