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酒は飲んでも飲まれるな!豊臣軍きっての猛将・福島正則の陣跡

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こんばんは。masayan(@masayan382)です。
戦国ファンからのちょいちょい好評もいただいている関ヶ原シリーズまだまだ続きます。

戦国時代に詳しい方、特に豊臣ファンの方ならご存知の方も多いはず。
「賤ヶ岳の七本槍」の一人であり、「関ヶ原の戦い」にも参加したこの方の陣跡を訪れます。
それは、「福島正則」です。

福島正則とは!?

安土桃山・江戸前期に活躍した戦国武将。幼名は市松、通称は左衛門大夫、号は高斎、法号は海福寺月翁正印大居士。幼時より秀吉に仕え、山崎の戦、賤ヶ岳の戦等において数々の軍功を挙げ尾張清洲城主となります。

関ヶ原の戦では黒田、加藤と共に東軍に属して戦います。徳川家康より安芸・備後二カ国を与えられ広島城主となりますが、元和5年(1619)、広島城無断修築の咎により信濃高井郡高井野邑に蟄居となります。
寛永元年(1624)死去。64才でした。

福島正則の母が豊臣秀吉の叔母(大政所の姉妹)だったため、その縁から幼少より小姓として秀吉に仕えています。そのため豊臣LOVEな感じがずっと続きます。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取るという大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5,000石を与えられます。ちなみに他の6人は3,000石だったそうです。

正則は石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪になり、慶長4年(1599年)の前田利家の死後、朋友の加藤清正らと共に三成を襲撃するなどの事件も起こしています。この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意しますが、その経緯から家康の昵懇大名の一人となります。

慶長5年(1600年)の会津征伐には6,000人を率いて従軍。その途中、上方で石田三成が挙兵した報を受けての小山評定では、徳川家康の意を受けた黒田長政にあらかじめ懐柔されていた福島正則が三成挙兵に動揺する諸大名の機先を制して、いち早く家康の味方につくことを誓約し、反転して西上する方針が決定します。

清洲から美濃方面に進軍し、西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させます。

また、関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家勢1万7,000と戦闘。 宇喜多勢のの前衛8,000を率いた明石全登に、福島勢は一時退却を余儀なくされますが、宇喜多勢の進撃を防ぎ切ることに成功。

やがて小早川秀秋の背信を機に、西軍の戦線は次々に崩壊。宇喜多勢は、開戦時から戦っていたため疲労が頂点に達し、東軍による集中攻撃に持ち堪えられなくなり、壊滅。正則は西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走し、戦後安芸広島と備後鞆49万8,000石を得ることとなります。

福島正則といえば武勇に優れた戦国武将のイメージが強いです。

いざ、福島正則陣跡へ

やはり駐車場があるというのは嬉しい限り。

福島正則の陣跡はこの春日神社にあります。

島津の陣跡もそうでしたが関ヶ原古戦場の神社はシンプルな神社が多いですね。

樹齢800年の月見宮大杉。
関ヶ原の戦いも見ていたんでしょうね。

そしてこちらが陣跡になります。

宇喜多勢に一時は押し込まれるも、援軍も到着し巻き返しを図ることができた福島勢。
戦後安芸広島と備後鞆49万8,000石を得る大快挙を成し遂げます。

関ヶ原の戦後の悲しい話

家康死後まもなくの元和5年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を幕府に無断で修理したことが武家諸法度違反に問われる。正則はその2ヶ月前から届けを出していたが、先年にも一国一城令発布後にもかかわらず新規に築城を行ったとして、毛利家から報告を受けた幕府より該当城の破却を命じられた後のことでもあり、幕府からは正式な許可が出ていなかった。福島側の言い分では、雨漏りする部分を止むを得ず修繕しただけという。江戸参勤中の正則が謝罪し、修繕した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みになったものの、求められた「本丸以外の修築分を破却」という条件に対し、正則は本丸の修築分のみ破却をおこない、二の丸・三の丸の修築分は据え置いた。これにより「破却が不十分である」と咎められる。また、人質として江戸に送るはずだった忠勝の出発を遅らせたこと、それに対して「万事親次第」と弁明を拒否するなどしたため、怒った将軍・徳川秀忠の命により、安芸・備後50万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減封・転封される。移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り、隠居した。出家して高斎と号した。

引用元:Wikipedia「福島正則」

申請していた城の修理も上手い事行かず、ふんだりけったりの福島正則。
気の毒すぎます。

さらに気の毒な話でいくと、有名な日本号の話もありますね。

酒席で、黒田家家臣・母里友信に酒を大杯で勧め断られますが、「飲み干せたならば好きな褒美をとらす」とさらに勧め、「黒田武士は酒に弱く酔えば何の役にも立たない」と罵倒し挑発。

家名を貶められた母里友信は、元々酒豪だったため酒を見事に一気飲みします。その結果、褒美として秀吉から拝領した名槍「日本号」を所望され、正則は不覚にも家宝の槍を呑み取られることになった。

これは大河ドラマ「軍師官兵衛」においても描かれているエピソードですね。記憶に新しい方も多いはず。

酒癖が悪いというのもなんとも言えませんね。

豊臣臣下の中でも猛将として名をはせた福島正則。
名選手が名監督になれるわけではないように、彼も猛将から名君主になれなかったタイプのようです。
ん〜、残念。

福島正則陣跡

所在地:関ケ原町大字松尾111
駐車場:あり
HP:http://www2.kanko-sekigahara.jp/historicsites-sekigahara/018.html

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