さぁ、先日から始まった関ケ原古戦場跡めぐり。
ではここで「関ヶ原の戦い」で大きく関わる人物のところへ向かいます。
日本人なら「歴史が好きではない人」でも耳にしたことのあるはず。
その戦国武将の名は…「徳川家康」。
ここで関ケ原古戦場における「徳川家康の陣跡」へ向かいます。
徳川家康とは!?
徳川家康といえば徳川幕府初代将軍。6才の時、織田・今川の人質となるが桶狭間の戦で岡崎にもどり、信長と結んで勢力を拡大。信長没後は豊臣秀吉と対立するが和睦し、秀吉の天下統一に協力。
秀吉の死後、関ヶ原の戦で石田三成を破り対抗勢力の一掃に成功、征夷大将軍となります。大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実共に天下を統一して幕府の基礎を固めた。元和2年(1616)歿、75才。
徳川家康の「鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス」でも有名です。
織田信長、豊臣秀吉ときて、最後まで天下を治めるチャンスをうかがい、ものにした男。
それが徳川家康です。
いざ、「徳川家康最初陣跡」へ
では、さっそく。駐車場へ車を置きます。
道路の向かい側こんなものが!
「桃配山」は国道21号線を挟んで中山道の松並木のほぼ向かいにあります。徳川家康は関ケ原合戦早朝に、赤坂から桃配山に兵を移動し、桃配山の中腹に陣を敷きました。
この山は、関ケ原合戦以前の壬申の乱にて、勝者である大海人皇子が野上行宮より出陣し陣を敷いたという言い伝えもあります。
家康は「縁起を担ぎこの場所に陣を置いた」という説もあるそうです。
さすがは「山」。登ります。
坂道を上るとそこには「葵の御紋」
こちらが徳川家康最初陣跡です。
ここから各武将たちからの情報が届き、それを聞きながら采配を振るっていたのでしょうか。
こういうのはやはり歴史好きにはたまらないです。
実は陣跡はここだけではありません。徳川家康の陣跡はもう一つあります。
さっそくそちらへ移動を開始。
いざ、徳川家康最後陣跡へ
関ケ原合戦当日午前11時ごろ、家康は苦戦に苛立ち、本陣を桃配山からまさに三成本陣の笹尾山のすぐ下(直線距離にて500~600m)へ移動させました。
ここからの伝令により松尾山の小早川秀秋に発砲を命じ、圧力をかけ、西軍と東軍のどちらにつくか悩んでいた小早川を見事裏切りへと仕向け、関ケ原合戦を勝利を手にします。
合戦後この場にて引見が行われ、討ち取ってきた敵の首級が実検されました。その後、幕府の命を受けた領主の竹中家により周囲の土塁や中央の土壇が築かれました。
土壇中央には「床几場(しょうぎば)徳川家康進旗験馘處」と刻まれた標柱が建っています。
こちらもわかりやすく「葵の御紋」が取り囲んでおります。
最後陣跡の中央の土壇には「床几場 徳川家康進旗験馘處」と刻まれています。
夕刻から、家康の引見が始まりました。家康は真っ先に現れた黒田長政に慰労の言葉を惜しまず、腰の吉光の銘刀を与えます。
島津隊を追撃した四男の松平忠吉と井伊直政が負傷して戻ってくると、まず我が子ではなく家臣をいたわる配慮を示したそうです。
次に寝返った小早川が現れ「なんら遺恨なし」と言いながらも、ただちに三成の佐和山城攻めを命じました。この大勝利に家康は「この関ケ原には鶯のさえずりが満ちておるわ」と上機嫌だったと伝えられています。
ここが、徳川家康のさらなる活躍を決定的にした場所になるわけですね。
ん〜、ここで歴史が動いたなんて思うとドキドキしてきます。
では、次回はまた関ヶ原古戦場の別の場所へ。
徳川家康最初陣跡
所在地:岐阜県関ヶ原町関ヶ原野上1424-1
駐車場:あり
HP:http://www2.kanko-sekigahara.jp/historicsites-sekigahara/023.html
徳川家康最後陣跡
所在地:岐阜県関ヶ原町関ヶ原陣場野959-2
HP:http://www2.kanko-sekigahara.jp/historicsites-sekigahara/014.html
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