先日から始まった関ケ原古戦場巡り。
さぁ、前回の続きと参りましょう。
まだまだ関ヶ原は終わりません。
黒田長政の次はやはりここですかね。
「石田三成陣跡」です。
笹尾山駐車場へ車を置きます。
っと、その前に見えてきたのが「島 左近陣地」の旗です。
島左近とは!?
島左近は、戦国時代から安土桃山時代の武将です。石田三成の家臣として有名です。通称は左近で、一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られますが、正確には島 清興(しま きよおき)。
三成に三顧の礼をもって迎えられ破格の高禄を食む側近として仕え、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの逸材だったとされています。
島 清興よりかは島左近の方がなじみがあるのは私だけではないはず。
「石田三成には過ぎたもの」と謳われた島左近。近江・水口に4万石を与えられていた三成は、かつて筒井家の名将であったといわれる島左近を自分の知行の半分に近い2万石で「上客」として召し抱えたました。
さらに、三成は惜し気もなく身を削り、自分が出世して石高が加増されたらまたその半分をあたえる約束をしました。
それだけの価値があると三成は判断したのでしょう。
左近は徳川家康を討つべく、「暗殺計画」や「夜襲」を提案するも石田三成は首を縦に振らなかったそうです。
関ヶ原の戦いでは石田三成の側にて指揮をとっていた島左近も自ら前線にて奮戦。しかし、黒田長政の迂回させた鉄砲隊の銃撃にあい負傷。そして正午過ぎ、小早川秀秋の寝返りで西軍は総崩れとなりました。
島左近が黒田長政及び田中吉政の軍勢に突撃した際は「鬼左近」と恐れられるほど奮戦だったそうですが討ち死しました。
馬防柵が再現されています。当時もこのように馬防柵が並んでいたのでしょうか。
そして次は目的のあの場所へ。
いざ、石田三成陣地へ
高々と「石田三成陣地」の文字が掲げられています。
↑こちらがそうだったんですね。
ってことで…、そもそも…。
石田三成とは!?
永禄3年(1560年)に近江(滋賀県)で石田正継の次男(三男とも)として生まれます。幼名は佐吉。
元は近江で寺小姓をしていたが、羽柴秀吉にその才を見出されて秀吉の右腕へと成長。
後に豊臣政権が発足すると五奉行の一人に抜擢される実力者へと躍進。
秀吉の九州征伐では二十万とされる兵士の輜重を大過なく運営するなど内政面の手腕に長けていて、
『鋭利なる吏僚』と呼ばれた。太閤検地の推進に務め、朝鮮出兵では朝鮮半島まで渡海。
秀吉没後、五大老筆頭の徳川家康と対立し、雌雄を決するべくついに「関ヶ原の戦い」に臨むも、小早川秀秋など味方の裏切りによって敗れてしまいます。
いろいろな顔を持つ三成さん。大河ドラマ「軍師官兵衛」においては黒田官兵衛と対立する悪い奴的な印象が強かったかな~と個人的な感想です。あのドラマにおいては俳優さんが見事なまでに子憎たらしい感じに演じていらして俳優さんのスキルを存分に発揮されていたと思います。
「軍師官兵衛」に限らず、ドラマで出るような時はやはり若干のヒール感は否めないです。
しかし、実際はやはり秀吉のブレーンとも言うべき頭の切れる武将だったようです。
かねてより、大谷吉継とは親友同士でした。秀吉の茶会で、一口ずつ飲み次へ茶碗を回す回し飲みがされました。らい病を患っていた吉継は飲む振りのみで茶碗を回そうとしますが、顔から出た膿が茶に落ちてしまいます。
以降の諸大名は茶に口を付けるのを嫌がり、飲む振りだけで茶碗を回していきます。しかし、三成は躊躇わず茶を飲み干しました。それ以降二人の間には一層深い友情が生まれたたそうです。
といった有名な話もあります。
なかなか眺めが素敵です。
ここからは関ヶ原の合戦地がよく見えます。
実際、ここから石田三成が采配を振るっていたのですねぇ。
こういうところに来れた時の感覚って凄いです。感無量です。
この関ヶ原の戦いは、最終的に小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなります。
そして三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れます。
これなら徳川と戦えると思っていたのに、蓋を開ければ裏切りばかり。悲しいなんてレベルを超えた感情だったんですかね、三成さん。
個人的に石田三成は好きな武将の一人です。
どうしてもこの関ヶ原の戦いは「石田三成VS徳川家康」のイメージが強いです。
しかし、関ヶ原の戦いにおける「西軍の総大将は石田三成ではなく、毛利輝元」です。
お間違えのないように。
笹尾山 石田三成陣跡
所在地:岐阜県不破郡、関ケ原町関ケ原4008
駐車場:あり。
HP:http://www.kanko-sekigahara.jp/
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