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関ヶ原の戦にて抜け駆けした井伊直政と松平忠吉陣跡と東首塚

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関ヶ原古戦場跡。まだまだ見どころ満載です。

関ヶ原には戦死者を葬った首塚が2つあります。

そのひとつがこの「東首塚」です。

東首塚とは!?

この塚は関ケ原合戦後、徳川家康が床几場で首実検をし、その後東西2ヶ所に埋葬したことから「東首塚」と呼ばれています。

この首塚は、当時この地の領主であった竹中重門が、家康の命により関ケ原の戦いで戦死した兵士たちを埋葬しました。

この首塚に埋められている戦死者の数は詳細不明ですが、西軍・東軍、計15万人の兵がぶつかったといわれる関ケ原の戦いなので非常に多くの戦死者が眠っているものと考えられます。

戦場には戦死者を弔う首塚があってほしいと個人的には思います。

いざ、東首塚へ

↑首洗いの古井戸

首実検に先立ち、首装束のため、この井戸水を使って首級の血や土などが洗い流されたそうです。

首実検の後は敵味方の戦死者を弔い、供養するのがならわしだったそうです。

ちなみに首実検とは配下の武士が戦場で討ちとった敵方の首級(くび・しるし)の身元を大将が判定し、その配下の武士の論功行賞の重要な判定材料とするために行われた作業のことだそうです。

 

こちらが首塚。

首実検の後、名を馳せた武将などは個別に墓を作ってもらえる人もいますが、一般の兵士たちはまとめて葬られました。

戦に出たのに戦死しても放置されたら悲しすぎますね。こういう配慮、本当に大切だと思います。

そして東首塚の奥には忘れずに立ち寄っていただきたいものがあります。

それがこちら。

井伊直政・松平忠吉の陣跡です。

井伊直政とは!?

井伊 直政(いい なおまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。兜は天衝脇立朱漆塗頭形兜。
徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。自身が組織した井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊として特に有名である。徳川氏きっての政治家・外交官としても名高い。遠江国井伊谷の出身で若手の武将でありながら、『柳営秘鑑』では榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。

引用元:Wikipedia「井伊直政」

松平忠吉とは!?

徳川家康の四男。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の同母弟です。ちなみにでいうと、井伊直政の娘婿にあたります。

父・家康が関東へ移封されると、文禄元年(1592年)に武蔵国忍城主となり、元服して忠吉と改める。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで舅の井伊直政の後見の下、初陣を飾って福島正則と先陣を争い、島津豊久を討ち取るなどの功を挙げる。戦後、尾張国および美濃国で清洲52万石を与えられ左近衛中将にも任官した。

引用元:Wikipedia「松平忠吉」

井伊直政・松平忠吉の陣跡

以前の記事で触れていますが、当初は福島隊が先に攻撃をしかける手筈でしたが、井伊直政の娘婿で初陣でもある松平忠吉に手柄を立てさせたい一念で抜け駆けします。

午前8時頃に、福島隊の先頭隊長・可児才蔵の制止を振り切り、宇喜多隊へ発砲し開戦となりました。

その後、直政と忠吉は島津隊を追撃し、大きな戦果を挙げますが、2人とも負傷してしまいます。

特に、直政の傷は深く、その傷がもとで2年後にこの世を去ってしまいます。

なんやかんやで関ヶ原の戦いの口火を切った二人の陣跡。

東首塚の境内?隣接?しておりますので是非見落とさぬよう合わせてチェックしてください!

 

井伊直政・松平忠吉の陣跡/東首塚

所在地:岐岐阜県関ヶ原町関ヶ原908-3
駐車場:あり
HP:http://www2.kanko-sekigahara.jp/historicsites-sekigahara/021.html

 

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