当ブログでは何回か話に出しているのですが、masayanは大の「平清盛ファン」です。既に京都にある清盛さんゆかりの地もいくつか訪れています。
しかし、平清盛を語る上で訪れなければならない地は京都だけではありません。
晩年、京都から現在の神戸へと遷都を推し進めておられました。一時、福原へ都を移すことにも成功しました。
まぁ、残念ながら還都せざるをえなくなってしまうわけですが。
ということで、今回は兵庫県にある「平清盛・平家ゆかりの地」をめぐろうかと思います。
シリーズ一発目はこちら。
【敦盛塚(あつもりづか)】です。
参りましょう。
敦盛塚(あつもりづか)へ
平敦盛の供養のため建てられたという大きな五輪塔。北条貞時が平家一門を供養するために建立し、「あつめ塚」といわれていたものが「あつもり塚」と呼ばれるようになったという説もあります。敦盛は、一の谷の合戦で源氏の武将の熊谷直実に討たれ16歳で命を落としました。大正時代には、子供の病気の神様として信仰され、お礼参りには敦盛愛用の「青葉の笛」になぞらえて、穴をあけた竹に白紙を巻き、水引きをかけたものを奉納したと伝えられています。
引用元:敦盛塚/須磨観光協会
平家って、「平〇盛」さんが多すぎてわかりにくいですよね。
なかなか平家好きでもたまに「アレって誰だったっけ」になってしまうこともあるかと。
しかし、敦盛さんは有名だったりもするので、わかる人も多いかと思います。
いざ、敦盛塚へ
とてもシンプルな五輪塔です。
平敦盛とは!?
笛の名手であり、祖父・平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)という笛を譲り受ける。
平家一門として17歳で一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、平家側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、我が子・直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った。この事から、直実の出家の志が一段と強くなったという発心譚が語られる。「延慶本」や「鎌倉本」の『平家物語』では、直実が敦盛の笛(または篳篥)を屋島にいる敦盛の父・平経盛の元に送り、直実の書状と経盛の返状が交わされる場面が描かれている。引用元:Wikipedia「平敦盛」
敦盛さんは笛の名手としても有名ですね。
源平合戦でも有名な一ノ谷の戦いにおいて命を落とされてしまいます。
『平家物語』の名場面として後に能『敦盛』、幸若舞『敦盛』、文楽/歌舞伎『一谷嫩軍記』などの題材となります。
そして、歴史好きな方はよくご存じかもしれません。
かの戦国武将・織田信長の好んだ歌「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか 」は幸若舞『敦盛』の一節です。
大河ドラマ「軍師官兵衛」や「信長のシェフ」のときでも信長さんは歌ってましたね。
こちらは胴塚とされています。首塚は須磨寺にあります。
すぐ隣には須磨浦公園
「源平史蹟・戦の濱。」
かつてはここで一ノ谷の戦いが繰り広げられたんですね。
今では静かな広々とした公園となっています。
そして、立ち去る前に寄ってほしいのがこちら。
「敦盛そば」をチェック
敦盛塚のすぐおとなりにあります。
もちろん、そばは「熱盛り」です。
なんつって。
大変に美味しかったです。是非敦盛塚と合わせてチェックしてくださいね。
ということで、次回は胴塚に続き、敦盛の首塚を目指して須磨寺へと足を運びます。
合わせて読みたい 須磨寺の見どころは平敦盛の首塚!源平合戦を今も伝える古刹
敦盛塚
所在地:兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町5丁目4 須磨区一ノ谷町5丁目4−18
駐車場:須磨浦公園にあります。
コメント