さて、京都の神社巡りはまだまだ続きます。
中でも、この神社は前々から狙ってました。なんといっても、京都の謎めく話にもつながる場所だからです。
神社が好きな方なら知ってる方も多いかと思います。
「蚕の社」や「木嶋神社(このしまじんじゃ)」として有名かもしれません。
しかし、正確には【木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)】です。
読み方が非常に難しいです。
実はここが噂の「秦氏ともつながる」とされている神社であり、日本国内でも珍しい三柱鳥居がある場所として知られています。
では、さっそく参りましょう。
木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)とは!?
延喜式内社で祭神は天之御中主神外四柱(大国魂神、穂々出見命、鵜茅葺不合命、瓊々杵尊)を祀っている。創建年月日は不詳であるが「続日本紀」大宝元年(701)4月3日の条に神社名が記載されていることから、それ以前に祭祀されていたと思われる古社である。天之御中主神を主として奉り、上は天神に至り下は地神に渉り、御魂の総徳を感じて天照御魂神と称し奉り、廣隆寺創建とともに勧請されたものと伝えられる。学問の神であり払いの神でもある。
案内板より
創建は不明ということです。
そして押さえておきたいのが、この周辺は「太秦(うずまさ)」と呼ばれる地域であるということ。
日本に養蚕などの技術をもたらした、渡来人・秦氏ゆかりの神社。養蚕神社があることから「蚕の社」と呼ばれています。
いざ、木嶋坐天照御魂神社へ
迫力のある入り口です。
突き進むと見えてくる拝殿。
最初は舞殿かと想ったら拝殿のようでした。
そして拝殿を後にして進むとこちら。
木嶋坐天照御魂神社・本殿です。
冒頭でも触れましたが御祭神は天之御中主、大国魂神、穂々出見命、鵜茅葺不合命、瓊々杵尊です。
本殿左側、写真でいうと右側に見えているのが東本殿(養蚕神社)になります。
雄略天皇の御代(1500年前)秦酒公呉国(今の中国南部)より漢織・呉織を召し秦氏の諸族と供に数多くの絹、綾を織り出し「禹豆麻佐」の姓を賜るこの地を太秦と称し、推古天皇の御代に至り、その報恩と繁栄を祈るための養蚕、織物、染色の祖神を勧請したのがこの社である。養蚕、織物、染色の守護神である。
案内板より
「禹豆麻佐」からの「うずまさ」。
私が聞いた「太秦エピソード」ではなかったのですが、そういう説もあります。
平安京を造るのにもその技術を遺憾なく発揮したとされる大陸の渡来人・秦氏。
建造物に限らず養蚕、織物、染色にもよく精通しており高い技術を持っていたそうです。
東があれば西も。写真には撮りそこねてしまいましたが、↑写真左側に見切れているのが西本殿・八社。
そして見所の謎めく鳥居・三柱鳥居
本殿左となりには鳥居があり、そこを進むと中は森になります。
この森の名を「元糺の森(もとただすのもり)」と言います。
そして、突き進むと池があります。この池を「元糺の池(もとただすのいけ)」と言います。
どうして「元糺の森」なのかというと、かつては木嶋神社の森が「糺の森」と呼ばれていたそうです。
さかのぼること平安時代は嵯峨天皇の時代のこと、潔斎の場を木嶋坐天照御魂神社の境内から下鴨神社に遷されしまったそうです。
そのため、元はこちらだと示すために、木島神社では「元糺の森」と呼称し下鴨神社の「糺の森」と区別するようになったとのこと。
そして、その中に見たかったものがありました。
↑三柱鳥居です。
三柱鳥居とは!?
正三角形平面に組み合わされ、隣り合う鳥居同士が柱を共有するため柱は3本である。笠木は井桁状に組まれ、貫は柱を貫かない。神明鳥居を組み合わせたものや、木嶋神社の例のように、笠木に曲線を施したものを組み合わせたものが見られる。
引用元:Wikipedia「三柱鳥居」
全国唯一の鳥居である。鳥居を三つ組み合わせた形体で中央の組石は本殿に御祭神の神座であり宇宙の中心をあらわし四方より拝することが出来るように建立されている。
創建年月は不詳であるが現在の鳥居は亨保年間(約300年前)に修復されたものである。一説には景教(キリスト教の)一派ネストル教約1300年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと伝わっている。案内板より
↑唯一と書かれていましたが数か所あるそうです。
案内板にも記載されていましたが「キリスト教の遺物」の話もある三柱鳥居。渡来人とされる秦氏が大陸から導入したものかもしれないとの噂がありますが…ここで繋がるのが以前も触れた…『日ユ同祖論』です。
合わせて読みたい 日ユ同祖論!旧約聖書の失われた10支族は日本に渡来していたのか
↑ご覧になられていない方、忘れてしまった方は是非ご覧ください。
Mr.都市伝説・関暁夫さんが語っていた都市伝説に「秦氏」に関することもあったので合わせてその話もしましょう。
これは今でも覚えていることなのですが、私が中学生の頃の話。修学旅行で京都に行くことになったとき、太秦にある「映画村」へ行くことになったのですが、「太秦」を「うずまさ」と読むことができなかったのです。
先生に「うずまさ」って読むんだぞと言われても、なんでこれで「うずまさ」になるんだろうかと疑問に思ったのです。
あなたも初見では「太秦」を「うずまさ」とは読めなかったのではないですか?
日ユ同祖論と秦氏
失われた10支族が「秦氏」ではないかとの話もあります。
進んだ知識や技術の中にキリスト教などに関することも日本に導入されたのではないかと。
いろんな話が繋がってきますね。確証こそないですが夢とロマンでドキドキしてきます。
「太秦」という地名について。
Mr.都市伝説・関さん曰く、この「失われたアーク」は一説には「ローマに運ばれたあと痕跡が無くなった」とのこと。そして、ダビデ王の側近に「ウザ」さんという人がいて、ウザさんが護衛してアークを運んだそうです。
そして「運ぶ」という言葉をヘブライ語で言うと「マサ」というそうです。
「ウザ」さんが「マサ」したそうです。「ウザマサ」→「うずまさ」なんじゃないかと。
一度、ローマに運んだ後、日本の京都に運ばれたんじゃないかという話です。
「太秦」は「ローマ国教」であるキリスト教を意味する「大秦景教」の「大秦」に由来すると考えられているそうです。
ちなみに、近場にある聖徳太子ゆかりの地でもある「広隆寺」というお寺もあるのですが別名には「太秦寺」などの別称もあったりします。
おわりに
噂話や都市伝説を並べても事実かどうかは断定はできません。
しかし、「火のない所に煙は立たぬ」とも言います。
仮に秦氏が失われた10支族だったとしたら、日ユ同祖論が本当だとしたら…。
「シオン祭と祇園祭が同じ日」というのも必然になるのでしょうか…。
「アークと御神輿」がよく似た形というのも必然になるのでしょうか…。
ユダヤにも、日本にも「三種の神器」があるのも必然になるのでしょうか…。
古事記も日本書紀も作られたのは平安時代ですが、平安京を造るにあたって尽力されたとされる秦氏の影響はなかったのでしょうか…。
このへんまでくると神のみぞ知るってところですかね。
我々は歴史ロマンを楽しむ程度がいいのかもしれません。
ということで、都市伝説ファンの方は是非、三柱鳥居を見に参拝されてみてはいかがでしょうか。
この話、信じるか信じないかはあなた次第です!…なんつって。
木嶋坐天照御魂神社
所在地:京都市右京区太秦森ヶ東町50
電話:075-861-2074
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