さぁ、だいぶ寄り道もしましたが、本当の目的地は「平家ゆかりの地」めぐりなのです。
そして、今回訪れるのは京都にある平家ゆかりの地です。
「六波羅蜜寺」です。
実はこちら、前回の「若一神社」の宮司さんにすすめられた場所でした。
なぜ勧められたのかはこれからお話しするとして、先に六波羅蜜寺の情報からチェックしましょう。
合わせて読みたい 若一神社は出世開運だけでなく、区画整備も退ける平清盛ゆかりの社
↑まだご覧いただけていなかったら是非一度合わせて御覧ください。
では、参りましょう。
六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)とは!?
踊り念仏で知られる市聖(いちひじり)空也(くうや)が平安時代中期の天暦5年(951年)に造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、当初西光寺と称した。空也は疫病の蔓延(まんえん)する当時の京都で、この観音像を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったという。空也は応和3年(963年)に鴨川岸に僧600名を集めて大規模な大般若経供養会を行ったが、この時をもって西光寺の創建とする説もある。当時、鴨川の岸は遺体の捨て場であり、葬送の場であった。
空也の死後、977年に比叡山の僧・中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称した。それ以降天台宗に属したが、桃山時代に真言宗智積院の末寺となった。平安末にはこの付近に、六波羅殿と呼ばれた平清盛ら平家一門の屋敷が営まれた。またのちに鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれたのもこの付近である。引用元:Wikipedia「六波羅蜜寺」
そうなんです。
この六波羅蜜寺のある周囲にはかつて「六波羅殿」と呼ばれ、平家一門の屋敷があったそうです。
というのも、平安時代の後期頃より平清盛の父・忠盛が境内に自軍を駐留させたことをきっかけに平家の拠点となりました。
清盛・重盛の頃には5200もの一門の邸宅が建ち並んでいたといいます。
残念ながら平安末期の兵火によって諸堂は焼け落ち、本堂だけが焼失を免れたそうです。
そのためこの近辺で平家のなごりを現在楽しめるものは六波羅蜜寺のみです。
ここから清盛さん巡りをします。
いざ、六波羅蜜寺へ
↑願石
中央に円状の石がはめ込んであり、回せる仕組みです。その石を祈りを込めながら手前に三回まわすと願いが叶うそうです。
ちなみに願い事は一つだけです。欲張らないように願い事は定めましょう!
願石のお隣の黒い観音像。
こちらは本尊である十一面観音菩薩像を模して作られた銅像です。本堂には本尊である十一面観音が祀られており秘仏とされています。
しかし、12年に一度、辰年の文化の日付近に公開されています。
ですので、平時はレプリカから観音様をイメージするのがよいのかもしれません。
↑こちらは「なで牛」さん。お体の辛いところをなでてやるといいらしいです。
↑お地蔵さま
土地柄「六道の辻」も近いこともあり、お地蔵さまも多い印象です。
そして、お待ちかね。お目当てがこちら!
平清盛公の塚
さすが平家ゆかりの地。こちらから供養などもされているのでしょうか。
他にはこのお寺の見所として有料になりますが宝物庫もあります。
教科書にも載っている重要文化財の「空也上人立像」などもありますが、個人的にはそちらよりも。こちら。
清盛座像です。教科書で見たことあるやつですよね。実際に見れますよ!
これか~。ほへ~って見ちゃいました。
個人的な感想としては思っていたよりは小さかったかなってところです。
まさか教科書に載っていたものを肉眼で見る日がこようとは…。
京都まで足を運んだかいがありました。
おわりに
では、最後に。
「若一神社」の宮司さんに教えてもらったお話しです。
この辺りはかつて鳥辺野という葬送地だったそうです。そのため火葬や土葬もせず、しまいには野原に死体を投げるだけでなんてこともあったそうです。
時には鴨川の河原は死体で溢れている時代もあったとか。
そのため公家や貴族はこのあたりに住もうとすることもなかったため、身分が低かった時代の平家はこのあたりに住まわれたそうです。
そういった経緯から、「六道珍皇寺」や「幽霊子育飴」の話も出てくるのかもしれませんね。
六波羅蜜寺
所在地:東山区松原通大和大路東入2丁目轆轤町81-1
電話:075-561-6980
HP:http://rokuhara.or.jp/
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