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箸墓古墳は卑弥呼の墓!?昼は人が造り、夜は神が造った奈良の箸墓伝説

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奈良県のパワースポット大神神社を後にして立ち寄るならここしかありません。

…というか、是非立ち寄りましょう。

箸墓古墳

箸墓古墳(はしはかこふん)です。

箸墓古墳(はしはかこふん)は、奈良県桜井市箸中にある前方後円墳です。

実際の被葬者は明らかでないですが、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の「倭迹迹日百襲姫命の墓」に治定されています。

この古墳は誰の墓なのか?

それは、日本人なら誰しもが歴史の教科書で名前を聞いたことがあるであろう人物の墓ではないかと噂されているのです。

その人物とは…。

邪馬台国の女王・【卑弥呼(ひみこ)です。

今回はその噂の舞台となる「箸墓古墳」をご紹介します。

 

箸墓古墳(はしはかこふん)とは!?

纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳。この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王、「卑弥呼」の墓とする(一部の邪馬台国畿内説)説もある。以前は築造年代が3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼が死亡したとされる3世紀前半との時期にずれがあるため、その可能性は少ないといわれてきた。しかし、1980年代以降の考古学的年代決定論により箸墓古墳の築造年代も卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀の中頃から後半とする説もある。
現在は宮内庁により陵墓として管理されており、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。大市は古墳のある地名。『古事記』では、夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命である。

引用元:Wikipedia「箸墓古墳」

全長282m、後円部径157m、高さ22m、前方部幅125m、高さ13mの大きな前方後円墳です。

卑弥呼の話は後ほど。とりあえずは宮内庁は現在「ヤマトトビモモソヒメの墓」としています。

古事記では「夜麻登登母母曾毘売」、日本書紀では「倭迹迹日百襲姫命」の表記ですがここでは面倒なので「モモソヒメ」で統一して書いていきます。

いざ、箸墓古墳へ

箸墓古墳

古墳の隣は池になっていました。

箸墓古墳

宮内庁の看板には「大市墓(おおいちのはか)」

第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されています。

Wikipediaからですが空撮だと本当に前方後円墳だとわかりますね。

「モモソヒメ」の墓としているのになぜ「卑弥呼の墓説」がでてくるのか?

箸墓古墳

ここが一番のキモの部分になります。

日本においてはじめて文字で書かれた歴史書に「古事記」と「日本書紀」があります。

どちらも神様が日本の国土を作るところから始まり多少のずれがありますが奈良時代くらいまでが記載されています。

同じような話がありながら互いに表記なり、演出なりが異なることも多々あるのですが、「日本書紀」は中国などの海外に向けた作りになっているからというのが定説となっています。

そして、多くの日本人が歴史の教科書で学ぶ日本の古代の国。邪馬台国。この邪馬台国を治めていたのが女王・卑弥呼です。

卑弥呼の存在は中国の魏志倭人伝(中国の歴史書『三国志』中の「魏書」)にも登場しています。

つまり中国の歴史書に卑弥呼がいるのだから、日本の歴史書である記紀(古事記と日本書紀のこと)にも記載されているのが筋というもの。

…しかし、ここで問題が発生します。

日本の歴史書「記紀」に邪馬台国も卑弥呼も登場しないのです。

これが古代史ファンが今でも語り合う源かもしれません。

未だに邪馬台国がどこにあったのかも定かではありません。北九州説、近畿説など様々。

そこでこういう発想になります。

「記紀に登場している人物の誰かではないのか?」

「卑弥呼という名前では登場していないのではないか?」

というもの。

こうして、記紀の登場人物の中から卑弥呼の特徴とマッチする人物にスポットが当たります。

では、次で「卑弥呼」について再確認してみましょう。

卑弥呼(ひみこ)とは!?

「魏志倭人伝」によると卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。この鬼道や惑の意味には諸説あり正確な内容は不明。ただし中国の史書には、黎明期の中国道教のことを鬼道と記している例もある。
既に年長大であったが夫を持たず(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。

引用元:Wikipedia「卑弥呼」

鬼道…呪術。つまり巫女やシャーマンのような力があったということ。

また、弟がいたということ。身の回りは一人の男子が行っていたこと。そして女性。

その特徴を考慮し、絞り込まれた結果、卑弥呼の候補者として名前が上がるのが次の人物。
 

卑弥呼の候補者

  1. 神功皇后
  2. 倭姫
  3. モモソヒメ

の御三方です。

うちのブログでは「神宮皇后」と「倭姫」に関してふれたことがあります。

そのためこの後はモモソヒメについてまとめます。

なお、神功皇后、倭姫に関してはこちらをご参照ください。

では参りましょう

モモソヒメ(夜麻登登母母曾毘売/倭迹迹日百襲姫命)とは!?

第7代孝霊天皇と、妃の倭国香媛との間に生まれた皇女です。

兄弟に孝元天皇、吉備津彦命、倭迹迹稚屋姫命がおられます。

また、占いに長けた話もいくつか記紀には登場しているのですが、一番有名なのが三輪山伝説・箸墓伝説とされるエピソード。

百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという

引用元:Wikipedia「倭迹迹日百襲姫命」

皇女であり、兄弟は天皇になり、占いの力も長けていた人物であり、大物主神に嫁ぐというそれはそれは高貴なお方が箸で陰部を突いて亡くなってしまうというマンガのようなお話しです。

箸墓古墳とはよく言ったものです。そして何より昼は人が作り、夜は神が作ったというからまた凄い。

神功皇后や倭姫に並ぶ、卑弥呼候補者として引けを取りません。

また、箸墓古墳は全国の古墳で最古級の3世紀中頃の築造と推定されており、『魏志』倭人伝に見える「径百余歩」という卑弥呼の冢に比定する説もあります。

まぁ、百歩の換算の計算の仕方や定義も当時と今じゃ違うだのなんだのありますが。

Masayanの考え

 

箸墓古墳

別に考古学者でもなく、なんとなく古代史が好きなレベルの私の考えです。

魏志倭人伝には卑弥呼死後の話が少しだけあります。

後に女王卑弥呼が死ぬと径百余歩の大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬した。
ところが、後継者として立てた男王を不服として国が内乱状態となり、千余人が誅殺し合った。
改めて卑彌呼の宗女である壹與を13歳の女王として立てた結果、倭国は遂に安定した。

引用元:Wikipedia「台与」

卑弥呼が死んだあとは男の王では治まらなかった。そのため壹與を女王として建てたら安定したということ。

つまりは壹與という少女にも卑弥呼と同じような鬼道に通ずるものがあったのかもしれません。

「壹與」は新字だと「壱与」だそうです。

そして振り返ると記紀には卑弥呼だけでなく、「壱与」も登場していません。

それを考慮すると卑弥呼と壱与が順番で登場するということ。

つまり、卑弥呼と思しき人物のあとにも呪術に長けた女性が登場しないと話が繋がらないということ。

呪術に秀でた女性三人。神宮皇后、倭姫、モモソヒメ。登場順で行いくと…。

「モモソヒメ→倭姫→神功皇后」

masayan
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これで考えると個人的には「卑弥呼は倭姫、壱与は神功皇后かな」なんて。

倭姫は三種の神器の一つ、草薙の剣をヤマトタケルに渡しちゃうくらいなので相当の権力があったのではないかと。兄妹は景行天皇ですし。

神功皇后は政治も行っていたし、三韓征伐までしちゃうくらいですし、彼女を認める国民もいたことでしょう。

弟はいなさそうですが、身の回りのことを武内宿祢さんがやってそうですし。

ただ、そうなると倭姫は女王と言えるほどの権勢を誇っていたのかは微妙ですよね。

まぁ、私みたいな人間がいくら考えてもわからないのですが、歴史ミステリーといいますか、歴史ロマンを楽しむには面白い材料かと思います。

そして、目についた「桃」の文字。

卑弥呼と桃

箸墓古墳の桃

箸墓古墳のすぐ近くに桃が売っていました。

邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、2009年に確認された大型建物跡(3世紀前半)の近くから、祭祀に用いたとみられる2千個を超す桃の種や大量の土器、木製品が発見されました。

LINK 奈良・纒向遺跡で大量の桃の種 邪馬台国の有力地 2000個超、祭祀に使用か

↑のリンクにも書いてありますが大型建物跡は「卑弥呼の居館では」との声も出ているそうで、邪馬台国近畿説支持者の間では持ち切りの話かもしれませんね。

中国の「道教」では、桃は不老長寿や秩序を象徴する神、西王母の食べ物です。

日本でも、不老長寿や厄除けの効力をもつものとして、祭祀に使われたと言われているとの話も。

かつては卑弥呼も祭祀に桃を使っていたのかもしれません。

そして、この記事を書くなかで調べていて気付いたもう一つの繋がり。

モモソヒメの兄弟の「吉備津彦命」という人物。

感の良い方ならもうピンときてますね?

吉備津彦命が吉備平定にあたって温羅(うら・うんら・おんら)という鬼を討ったという伝承が岡山県を中心として広く知られています。

温羅は鬼ノ城に住んで地域を荒らしていたそうですが、吉備津彦命は犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)という3人の家来とともに温羅を討ちます。

この伝説は、かの有名な物語「桃太郎」のモチーフになったとも言われています。

まさかここで「」が絡んでくるとは…。だいぶこじつけですが。雑学までにということで。

おわりに

だいぶ長くなってしまった箸墓古墳。

ここまでの知識を持って見に行くと「ただの古墳か~」では終わらないくらいの楽しみ方もできるはず。

未だに熱心な研究者が結論をだせない卑弥呼の話。古代史ファン、歴史ミステリー好きの方は是非、話のタネにでも訪れてみてはいかがでしょうか。

 

箸墓古墳

所在地:奈良県桜井市箸中

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