元伊勢三社巡りをした後、そのまま「丹波」へ寄り道しました。
歴史好きな人なら「丹波」と言えば脳裏をよぎる戦国武将がおられるかもしれませんね。
私は「明智光秀」がよぎりました。というのも、1579年、明智光秀が丹波を平定していたからです。
今回は明智光秀ゆかりの地・『福知山城』を攻めます!
明智光秀ゆかりの地・福知山城(ふくちやまじょう)とは!?
現在のような縄張りは明智光秀がおこなった。畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた。豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入った。丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした。
現在は、福知山城公園として整備され、天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が1986年(昭和61年)に復元された。引用元:Wikipedia「福知山城」
今回訪れたこちら、福知山城は市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあります。
その地形の姿から「臥龍城」という別名もあります。なんともかっこいい別名です。
どれほどのものなのか楽しみです。
いざ、福知山城へ
車を置いてさっそく攻めかかります。
坂道を登っていきます。
やはり城というのは攻めにくさがあるために、坂道とか山道なんですよね。体力ないとしんどく感じます。
そしてようやく開けたところへ到着。
これが福知山城だ!
ちくしょう。かっけーじゃねぇか!!
福知山城
福知山城は天正年間 明智光秀の縄張りと伝えられ慶長年間にいたり近世城郭として完成されました。
明治の廃城後わずかに残された本丸に多くの皆様の協力により大天守閣続櫓小天守閣が再建されました。
城郭研究の権威東京工業大学名誉教授藤岡通夫工学博士の復元設計による二重櫓に入母屋の大家ねをかけその上に小望楼をのせた姿は初期天守閣の様式をよく表しています構造鉄筋コンクリート造三層四階建て:延べ床面積:1063平方メートル:総高:20.2メートル:竣工:昭和61年11月9日
引用元:場内案内板
再建とはいえ、大変にお見事。
おそらく当時もこのようなかっこいいお城だったんじゃないでしょうか。
お城って見てるだけで癒されます。
建物の部分もさることながら、石垣も美しい。
石垣は、「野面積み」「乱石積み」「穴太積み」と呼ばれる自然石をそのまま利用されている方法で積まれています。
また宝篋印塔、五輪塔などの石造物が大量に使用されており、「転用石」とも呼ばれているそうです。
相当の寺院や墓所を破壊して石材を調達した証拠のようですが、それっぽい部分の写真は撮り忘れてしまいました。無念。
福知山城天守閣復元鯱瓦
高さ150センチ、幅80センチ、奥行き45センチ、重さ120キロの鯱瓦です。
でかい!こんなでかいものが乗ってるんですね。
鯱(しゃち)とは、姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物のことです。
「建物が火事の際には水を噴き出して火を消すという」おまじないのようなものだそうです。
なんといってもこちら、あの織田信長が本来は、寺院堂塔内にある厨子等を飾っていたものを安土城天主の装飾に取り入り使用したことで普及したといわれています。
織田信長を裏切ったとされる明智光秀のお城にも鯱瓦があるというのも気になるところですね。
↓復元された天守閣のてっぺんにも鯱のしっぽが見え隠れしますね。
↑「豊磐井」
写真下にあるのが「豊磐井」(とよいわのい)と呼ばれている大型の井戸。
この井戸は城主であった朽木稙昌の父朽木稙綱の神号「豊磐稙綱命」にちなんだものだそうです。
門の間からも見える素晴らしい展望。
ヒーヒー言いながら上ってきたかいにのある眺めが楽しめます。
よし、ぐるっと見れるところは見れた。
ということで、いよいよ城内を攻めます!
まさかの大どんでん返し
…休館日でした(笑)
まじか~(*´Д`)せっかく来たのに!!
…、また日を改めてくるしかないですね。無念。
おわりに
そして、気を落として歩いていると行きでは見落としていたタイル。
日本昔話を彷彿とさせる龍です。
でも気になるのが龍が握っている球体は…ドラゴンボール?
福知山城、別名『臥龍城』。そういうことなんですかねきっと。
合わせて読みたい 明智光秀を祀る御霊神社!実は明智光秀は民に慕われている領主だった
福知山城
所在地:京都府 福知山市 字内記5
電話:0773-23-9564
駐車場:あり
休館日:毎週火曜日(祝日の場合は翌日)
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