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豊臣政権の要!五大老にして、西軍・副大将の宇喜多秀家陣跡

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さぁ、当ブログにおける関ヶ原古戦場シリーズ続きます。

まだまだ戦国武将陣跡を攻めていきます。

関ヶ原の戦い開戦地・小西行長陣跡を背にし、歩きます。

矢印が出ているので迷わず進むことができます。

しばらく歩き、目に見えるのがこの天満神社。こちらが目印になります。

天満神社を目指し歩いていくと見えてくるのがこちら。

宇喜多の家紋入りの旗が出てきます。

宇喜多秀家とは!?

宇喜多直家晩生の子で、天正9年(1581)、父の病没により9歳で家督を相続。翌年毛利征伐のため出陣してきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に気に入られ、養子扱いの厚遇を受けます。

本能寺の変ののち、秀吉の天下取りの戦いに積極的に参戦、数々の戦功を挙げ、天下統一後は備前国・美作国・播磨国西部と備中国東半の57万4千石を知行する大大名に躍進。

天正17年(1589)には、前田利家の娘で秀吉の養女となった豪姫を正室に迎えます。文禄の役(第一次朝鮮出兵)では元帥を務め、戦後その功により中納言に昇進。

さらに、徳川家康、前田利家らとともに豊臣政権の最高機関である五大老に任じられ、名実ともに政権の実力者に名を連ねます。

ちなみに、「秀家」の名は、元服した際、豊臣秀吉から「秀」の字を与えらたものです。秀吉の寵愛を受けて、1586年に、羽柴秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室に迎えます。

そのこともあり、外様ではあっても羽柴家(豊臣家)の一門衆としての扱いを受けています。

こちらの天満神社もなかなかシンプルな神社です。

宇喜多秀家公陣所跡

こちらが「宇喜多秀家公陣所跡」です。

秀吉没後、後を追うように豊臣秀頼の後見役だった前田利家が慶長4年(1599年)に死去すると、豊臣家内で武断派の加藤清正・福島正則らと、文治派の石田三成・小西行長らとの派閥抗争が表面化した。これに乗じた五大老の徳川家康が、豊臣家における影響力を強めることとなる。そして清正ら武闘派7将による石田三成襲撃事件が勃発した際には、秀家は佐竹義宣とともに三成を救出した。
慶長5年(1600年)、家康が会津征伐のため出兵している機を見計らい、石田三成は毛利輝元を盟主に担ぎ、打倒家康のために挙兵した。秀家は西軍の副大将として石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発し、西軍の主力となる。伏見城の戦いでは総大将として参加し攻略、その後本隊と別れて伊勢国長島城を攻撃した後、美濃国大垣城に入城し西軍本隊と合流した。関ヶ原の戦いにおいても西軍主力(西軍の中では最大の1万7,000人)として積極的に戦い、東軍の福島正則隊と激戦を繰り広げた。しかし同じ豊臣一門である小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。
小早川隊の裏切りに激怒した秀家は、「松尾山(小早川の陣)に乗り込み金吾(秀秋)を叩き斬ってやる」と叫んだと言われるが、明石全登に制止され、やむなく落ち延びていった。

引用元:Wikipedia「宇喜多秀家」

秀吉から五大老の一人に任じられた豊臣政権の要の人物。
もちろん関ヶ原の戦においても主力となる活躍をするも小早川秀秋の裏切り行為により総崩れになるとは…。

宇喜多秀家は伊吹山中に逃れた後、変装すると薩摩国の島津義弘などを頼って落ち延びます。

その後、島津氏も徳川家康に臣従し、宇喜多秀家を庇護しているという噂が広まったため、1603年に島津忠恒(島津義弘の子)によって徳川家康のもとへ身柄を引き渡されます。死罪こそ免れるものの、駿河国久能山へ幽閉されます。

その後、16068月年、宇喜多秀家、宇喜多秀高、宇喜多秀継、家臣10名の主従13名は八丈島へ流されます。

石碑には「浮田」の文字。

なぜかというと、八丈島に住むと苗字を「宇喜多」から「浮田」に改めていたからです。

豊臣家のために西軍・副大将として尽力した宇喜多氏。

小早川の裏切りのために西軍は敗退し流罪となるとはなんとも気の毒。

それだけ戦の結果がその後の命運を分けるものなんだと後世の人間に示してくれている人物のように感じます。

宇喜多秀家陣跡

所在地:関ケ原町大字関ケ原4146-1
駐車場:なし
HP:http://www.kanko-sekigahara.jp/

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