少し前に京都でウロウロしていたときの話です。
京都の職場の方々に京都の人はどこでお買い物をするのか尋ねたら「四条やで」と教えていただいたのでノープランでぶらぶらしていたら見つけてしまいました。
それがこちら。
【本能寺】です。
あの、本能寺です。写真左側には切れてしまっていますが「信長」の文字がありますね。
はい。あの織田信長が最期を迎えた「本能寺の変」の「本能寺」です。
基本、「あそこへ行こう」と調べてから行くんですけどね、下調べもせずにものすごい場所に引き寄せられてしまいました。今
でも見つけた衝撃とドキドキしながら見て回った記憶があります。
ということでさっそく参りましょう!
本能寺の変とは!?
本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、明智光秀が謀反を起こして京都本能寺に宿泊していた主君織田信長を襲撃した事件である。
信長は寝込みを襲われ包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり自害した。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。
光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。引用元:Wikipedia「本能寺」
これが俗にいう「本能寺の変」ですね。
むしろ、光秀が本能寺に到着した時には既に信長は死んでいた説とかいろいろありますもんね。
答えが出せないところが歴史ロマン溢れていいですね。
そして大事なのがこちら。当時と現在は場所が違うということ。
天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区下本能寺前町)へと移転させられた。伽藍の落成は、天正20年(1592年)。現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地であった。元和元年(1615年)、江戸幕府から朱印地40石を与えられた。前述の理由で戦国大名との関係も深かったこともあり、寛永10年(1633年)の『本能寺末寺帳』によれば末寺92を数える大寺院になっていた。
天明8年(1788年)の天明の大火、元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失した。従来は長州藩邸に隣接していたため、長州藩邸の火が延焼したと思われていたが、それ以前に薩摩藩の砲撃により長州藩邸よりも先に焼け落ちたという説もある。引用元:Wikipedia「本能寺」
↑ということで秀吉の命で移転しています。
いざ、本能寺へ
「おぉ~これが、当時の場所から移築はされていたとしても本能寺なのか~」と興奮度MAXでした。
こちらが本堂です。立派な造りです。
そして、こちらの奥にあるのが…。信長公廟です。
信長公廟
↑信長のお墓の隣には本能寺の変で戦死した家臣たちのお墓もあります。
このお墓には、100名ほどが合祀されています。
有名なところでは森蘭丸の名もありました。
そしてこちらが織田信長のお墓。
本能寺の変では、信長の嫡男の信忠も亡くなっています。
そのため、信長の三男信孝は、信長らの燼骨(じんこつ)収集の作業を進め、本能寺の変から一箇月後の7月3日早くも本能寺を父信長の墓所と定めました。
この御廟には、武士の魂とされる信長所持の太刀がおさめられているそうです。
刀は武士の魂ともいえるもの。ある意味でこちらには信長公が眠られていると言えるのかもしれません。
なんの下調べもせず、吸い寄せられるように来てしまった本能寺。
日本の歴史上、TOPクラスに有名な織田信長。その人のお墓に来れているだけでも感動ものです。
ちなみに、京都の阿弥陀寺にも信長の墓があるようなので次回はそちらも行ってみたいと思います。
本能寺
所在地:京都府京都市中京区寺町通御池下る下本能寺前町522
電話: 075-231-5335
HP:http://www.kyoto-honnouji.jp/index.html
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