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新選組総長・山南敬助は光縁寺に今も眠る!~寺紋と家紋が繋いだ縁~

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京都にある八木邸周辺の新選組ゆかりの地もだいぶ見てまわることができました。

しかし、ここを抑えておかなければなりません。

そうです。あえて最後にまわしました。

光縁寺

『光縁寺』です。

こちらには新選組総長・山南敬助さんのお墓があります。

いざ、光縁寺へ

光縁寺

境内の裏側には山南さんのお墓があります。

山南敬助とは!?

山南 敬助(やまなみ/さんなん けいすけ、天保4年(1833年2月5日)- 元治2年2月23日(1865年3月20日))は、江戸時代末期(幕末)の武士・新選組隊士(副長、総長)。陸奥国仙台藩出身。諱は知信(とものぶ)。晩年は三南三郎を名乗っていた。

引用元:Wikipedia「山南敬助」

苗字の読み方は「やまなみ」か「さんなん」らしいです。

私は「やまなみ」さんで読みたいです。

江戸では小野派一刀流の免許皆伝となり、後に北辰一刀流の千葉周作門人となっていたそうですが、実は柔術の名手とも言われています。

近藤勇の天然理心流剣術道場・試衛館に他流試合を挑み、相対した近藤に敗れてしまいます。

しかし、近藤勇の腕前や人柄に感銘を受け近藤を慕うようになり、以後は試衛館の門人と行動を共にするようになります。

その後京都で壬生浪士組を発足。山南さんは近藤派の土方歳三、芹沢派の新見錦と共に副長に就任します。

その後、激しい主導権争いが起き、芹沢派を粛清。組織再編で山南は新設された「総長」となり、局長の近藤、副長の土方に次ぐ地位に就任します。

光縁寺

新選組の名を広めた元治元年(1864年)6月5日の「池田屋事件」には、山南さんは出動していないそうです。

ちょっと意外ですね。永倉新八の手記『浪士文久報国記事』の同年6月26日の条には、山南が病気のために屯所に引き込んでいた旨が記されていたそうですが、詳細は不明とのこと。

光縁寺

こちらの墓石は総長・山南敬助ら5名の合同墓となります。

墓石には河合耆三郎、柴田彦三郎、施山多喜人、石川三郎の名が刻まれています。

山南敬助の最期

元治2年(1865年)2月、山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方をくらませた。新選組の隊規で脱走は死罪に他ならない。近藤と土方は直ちに沖田を追っ手として差し向けた。沖田だけを派遣したのは、弟のように可愛がっていた彼ならば山南も抵抗しないだろうという、土方の思惑によるものといわれている。大津で沖田に追いつかれた山南はそこで捕縛され、新選組屯所に連れ戻された。
脱走原因には諸説ある。西本願寺侍臣西村兼文によれば、山南を追い詰めたのは屯所移転問題だったという。新選組は隊士が増えて壬生村が手狭になったことから屯所を京都市内の西本願寺に移したが、これには西本願寺は勤王色が濃いうえに長州藩毛利家とも近い関係にあるという背景が介在した。近藤はあえてその西本願寺に屯所を移してこの地を抑え、将来禍根となりうる芽を摘んでしまおうと考えたのである。勤王の志が強い山南はこれに強く反対したが、近藤や土方は全く取り合わず、こののち山南は新選組との決別を意識するようになったという。

引用元:Wikipedia「山南敬助」

最盛期には200人を超えたとも言われる新選組。

名を馳せればそれだけ入隊希望者も増えたことでしょう。

規模に合わせて屯所も考えなくてはならないですからね。屯所移転問題は何かと心労がついてまわったと思います。

山南が馴染みにしていた島原の遊女・明里の話もありますが、創作の可能性が強く史実ではないかもとのこと。

大河ドラマ「新選組!」では明里の話がありましたが…個人的にはこっちの話の方が素敵かなぁとは思いますが。

光縁寺

「局ヲ脱スルヲ許サズ」という鉄の隊規にのっとり切腹を申し付けられた山南さん。

先日の前川邸で切腹されます。介錯には沖田総司を指名しました。

参考 山南敬助切腹の間

その後、山南家の家紋と寺紋が同じだったことから住職と親しくしていたという光縁寺に葬られます。享年33歳。

山南さんの切腹を見て近藤局長は「浅野内匠頭でも、こうは見事にあい果てまい」と賞賛したそうです。

光縁寺

山南さんの右端のお墓は住職さんの話では、沖田総司が連れてきた縁者で、山南敬助の恋人「明里」だとか。

山南さんの左となりは大石造酒造のお墓です。

そしてその左となりは12人の合同墓となっています。墓石には松原忠司、桜井勇之進、小川信太郎、市橋鎌吉、田内知、右側面に田中寅三、加藤羆、左側面に矢口健一郎、佐野七五三之助、中村五郎、茨木司、富川十郎の名が刻まれています。

ちなみにで言うと、油小路の変で亡くなった「伊東甲子太郎」、「藤堂平助」も最初は光縁寺に葬られていましたが、その後、「戒光寺」に改葬されています。

山南敬助と光縁寺

光縁寺

先ほども軽くふれましたが、「丸に右離れ三つ葉立葵」これが山南さんと光縁寺を繋いだ紋です。

屯所の近くにあるお寺の紋が自分の家紋と同じだったなんてまさに何かの縁だったのでしょうね。

おかげで新選組との繋がりがふかいお寺になりましたね。

光縁寺

立派な鬼瓦が境内にあります。

お寺であり、お墓でもあるため派手なことはできませんが、思いをはせることはできます。

幕末を駆け抜けた新選組のみなさまのご冥福を祈ります。

 

光縁寺

所在地:京都市下京区綾小路大宮西入四条大宮町37
電話:075-811-0883

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京都
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この記事を書いた人
masayan

普段は看護師をしております。好きなものは日本史。特に古代史・平安・戦国・幕末が大好物です。都市伝説・フリーメイソンの話も大好きです。休日は寺社、城、史跡巡りを主にしております。

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