前回の記事の最後にあった、「含み」が気になっている方もおられるようなので、さっそく触れていきます。
こちらの「葵の御紋」はもちろん徳川家。
南宗寺に関係するのが「徳川家康」となります。
そして、この南宗寺が平成の世まで語り継ぐ伝説。それは…。
【大坂夏の陣で、徳川家康が後藤又兵衛の刃に倒れ、ここに辿り着き亡くなったという伝説】
なのです!!
大坂夏の陣で、徳川家康が後藤又兵衛の刃に倒れ、ここに辿り着き亡くなったという伝説とは!?
大坂夏の陣の時、真田幸村の奇襲を受けて輿にのって逃げ出した家康。しかし大坂方の猛将・後藤又兵衛は怪しいと睨んで槍でついた。家康はそのまま南宗寺で絶命。しかし死去はふせられ、家康の影武者が活躍。家康の遺体はひそかに日光東照宮へ運ばれ葬られたという」こんな伝説がまことしやかにささやかれる南宗寺。二代将軍・秀忠、三代将軍・家光が相次いで寺を参詣したのも、実は家康の死が起因しているとの説が伝えられています。
引用元:特集 堺を巡る |堺観光ガイド
面白い話です。
ちなみに真田幸村さんは今年の大河ドラマの主役になられます。
後藤又兵衛さんは前々回の大河ドラマ「軍師官兵衛」で登場しております。
後藤又兵衛(ごとうまたべえ)とは!?
後藤 基次(ごとう もとつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は又兵衞で、後藤 又兵衛(ごとう またべえ)として広く知られる。黒田如水、黒田長政、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」、また大阪の役の講談や軍記物語などで英雄として描かれ、「大坂城五人衆」の一人に数えられた。
引用元:Wikipedia「後藤基次」
あの天才軍師・黒田官兵衛、黒田長政に仕えた人物。「槍の又兵衛」と言われるほどの名手だったそうです。
石碑は東照宮跡とされ、昭和20年戦災で焼失した堺東照宮の跡に、水戸徳川家の家老末裔・三木啓次郎が再建したものだそうです。
墓石には名前が刻まれています。
読めますか?「徳川家康墓」の文字が。
背面にある賛同者の名前。実は左から2つめに「松下幸之助」のお名前があります。
そうです。松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助さんです。
前回載せていた唐門の瓦に徳川家の家紋がしっかり刻まれております。
さぁ、みなさんどうですか?
おそらく、私のブログで、この記事を読んでいるということは歴史好き、寺社好き、武将好きな方々が多いはずです。
「家康が大阪夏の陣で死んでいた」どう思いますか?
単なる伝説で、こんな大がかりなことをするだろうか。そんな思いを抱いていると「伝説を裏付けるものがまだあるんです」と川上さん。家康の墓の斜め後ろには伝説にも登場する開山堂の跡がある。そこにある無名塔の隣には、幕末の幕臣だった山岡鉄舟の筆という「この無名塔を家康の墓と認める」との内容の碑文が埋め込まれている。
開山堂跡近くの坐雲亭内の板額には1623年(元和9年)7月10日に徳川秀忠、8月18日に家光と、代替わりした両将軍が相次ぎ同寺を訪れた記録が残る。川上さんは「2人の将軍が1カ月ほどの間に南宗寺を訪ねるのは、かなり異例でしょう」と説明する。
引用元:大阪・堺に「徳川家康の墓」の謎 夏の陣で討ち死に伝説 :日本経済新聞
↑こちらが開山堂跡。
そして前回はあえて載せなかった坐雲亭の看板。
中には「1623年7月に徳川秀忠、8月に家光の両将軍の御成の旨を記した板額がかかっている。」とのことです。
まとめ
さぁ、実際はどうだったのでしょうか?
夏の陣にて後藤又兵衛も戦死しておりますし、家康に槍を刺すことはできたのでしょうか。
上記の根拠的な話も少し弱いような印象もあります。秘め事だった以上、証拠は残せなかったのが事実なのか…。
実際、家康は2年で将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代征夷大将軍となります。早いですよね。
まぁ、お歳でしたけど。これが実は「影武者だったから早く秀忠が第2代征夷大将軍となるようにしたかった」となれば必然だったのでしょうか。
歴史や真実とはその時の権力者によって書き換えられるもの。真実とはいったいどのようなものだったのでしょうか。気になるところです。
残念ながらイチ看護師にはここまでが限界です。歴史学者でもなんでもないので詳しい真実についてはわかりかねます。
この伝説を信じるか信じないかはあなた次第です!なんつって。
お後がよろしいようで。
南宗寺
所在地:大阪府堺市堺区南旅篭町東3丁-1-2
電話:072-232-1654
駐車場: 30台(無料)
拝観料:拝観料:大人400円、中人300円、小人200円
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