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亀山社中とは坂本龍馬と同志により設立された日本初の商社

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龍馬通りを進みようやく到着したのがこちら。

亀山社中

亀山社中です。

そうです。歴史の教科書にも登場し、坂本龍馬の功績としても有名ですね。

日本で最初の貿易会社「亀山社中」です。

今では観光名所となっています。では、さっそく参りましょう。

 

亀山社中(かめやましゃちゅう)とは!?

坂本龍馬らは幕府機関である神戸海軍操練所の解散に伴い、薩摩藩の援助を得、慶応元年(1865年)、夏頃、薩摩藩や長崎商人・小曽根(こぞね)家の援助を受け、長崎の亀山(現在の長崎市伊良林地区)において日本最初の商社といわれる亀山社中を結成、ここを拠点とし、グラバー商会と銃器の取引を開始し藩に銃器などを卸した。
最初に拠点を構えた地「亀山」と、仲間・結社を意味する「社中」をあわせて亀山社中と呼ばれました。
物資の輸送や航海訓練なども行い、1866年長州藩のために薩摩藩名義で大量の小銃や蒸気船ユニオン号(桜島丸・乙丑丸)の購入・運搬に成功。そのことが、慶応2年(1866)1月の薩長盟約締結へとつながり、新しい時代をひらくための足がかりとなった。
慶応3年(1867年)4月には坂本龍馬の脱藩が許され、龍馬は隊長となり、土佐藩に付属する外郭機関として「海援隊」と改称、海援隊は長崎の小曽根邸を本拠地とした。

坂本龍馬が初めて長崎の地を踏んだのは、元治元年(1864)2月23日、亀山社中設立のために再び長崎に来たのは翌慶応元年(1865年)の6~7月頃であった。

慶応元年(1865)夏頃、薩摩藩や長崎商人・小曽根(こぞね)家の援助を受け、日本最初の商社といわれる「亀山社中」を結成しました。この団体は、龍馬らが最初に拠点を構えた地「亀山」と、仲間・結社を意味する「社中」をあわせてそう呼ばれました。亀山社中の最大の業績は、慶応2年(1866)に、長州藩のために薩摩藩名義で大量の小銃や蒸気船ユニオン号(桜島丸・乙丑丸)の購入・運搬に成功したことです。そのことが、慶応2年(1866)1月の薩長盟約締結へとつながり、新しい時代をひらくための足がかりとなったのです。

引用元:亀山社中記念館|長崎県|坂本龍馬関連

ちなみに亀山社中という名前にはこのような意味があるそうです。

幕末頃、亀山で「亀山焼」という焼物が一時焼かれていましたが廃窯となり、その窯ではたらいていた人々の住居跡を根城としていたそうです。

亀山社中の「亀山」はその地名をとったもので、「社中」は「人の集まり」を意味しています。

いざ、亀山社中へ!

亀山社中

では、入り口から入り進みます。

坂本龍馬

一番有名な坂本龍馬の写真ですね。

亀山社中の展示物

亀山社中の展示物

亀山社中の展示物

坂本龍馬ゆかりの品々がたくさん展示されていました。

亀山社中の展示物

↑坂本龍馬といえば「ブーツ」ですね。

龍馬伝の掲示物

そして外の売店には…所狭しと福山雅治さん改め龍馬伝のポスター。

これは必然なのでしょうねきっと。

龍馬のぶーつ像

龍馬のぶーつ像

そして亀山社中を後にして、「龍馬のぶーつ像」へ。

 

坂本龍馬が1865年(慶応元年)に「亀山社中」を創設してから130年になることを記念し、1995年(平成7年)に「亀山社中ば活かす会」が中心となって建立したもの。船に乗っているような気分が楽しめる舵輪と大きなブーツがあり、実際に足を入れることができる。雨の日でも足が入れられるようにブーツの底には穴が空いている。ここから見ることのできる長崎の街並みは「長崎都市景観賞」を受賞するなど評価されている。

引用元:Wikipedia「龍馬のぶーつ像」

別にこれが坂本龍馬と関係があるのか?と問われれば微妙なのですが、せっかく観光にきたわけですし。

うん。一応、拝見して写真を撮って、履いてみました。

 

長い石段

そして帰り道も長い長い石段。
「石段も 昔偲べば また楽し」

まったくもってその通りです。

亀山社中記念館

所在地:長崎県長崎市伊良林2丁目7−24
電話:095−823−3400
入館料:入館料 一般 個人/300円 団体/240円
高校生 個人/200円 団体/160円
小・中学生 個人/150円 団体/120円
HP:http://www.city.nagasaki.lg.jp/kameyama/index.html

 

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